忘れ潮を夢見て

9〜別離〜


「織田軍の手の者か…」
 お先は私の手を取ると、空いている手を腰に宛てる。そこには大きな太刀が隠し持たれており、お先が襲撃を予想していたことが知れた。
 太刀の鐔が覚悟の色で光っている。何も知らない事への罪悪感に、私は心を潰されそうになっていた。
「うるさ、今のうちに、外に出るぞ」
「う、うん…」
 吐きたくなるほどの緊張が全身を襲い、私は背中を駆け巡る恐怖に、呼吸する方法すらも忘れてしまう。
 外からは、剣が重なる音、火繩銃が放たれる音、武者たちの激しい唸り声が、折り重なり合ってオーケストラのように聞こえる。
 私だけが護られて、何も知らされてはいなかった。その事実が、まるでただひとりだけ、遠い場所にいるかのような気分にさせられてしまう。
「行くぞ。お前は何も考えずに、ただ目を閉じていれば良い」
「ダメだよ! 私も一緒に闘うんだよ!」
 私だけが仲間外れになるのは嫌だった。まるで何も識らないお姫様のような扱いが、堪えられない。私は決意を秘めた鋭い眼差しで、お先を見る。どうか見くびらないで欲しい。
 けええどもお先は何も言わなかった。ただ慈しみに溢れた視線を私に向ける。私の心ごと包んでくれて、護ってくれるような視線に、私は泣きたくなった。
 この人は、総て自分だけで背負うとしている。苦しみは分かち合いたいのに、それを受け入れてくれる様子は、微塵も無かった。その深みある眼差しが総てを表している。
「…上手くいけば、もうすぐ地震が来る。今のタイミングに来てくれたら良かったんだが、ズレちまったな…」
 まるで遠い世界を見るような眼差しをすると、お先は微笑んだ。
 今まで見たことがないような切ない微笑みに、私は呼吸が出来なくなるほどの激しい痛みを胸に感じた。
「うるさ、行くぞ。ただ俺に着いて来い」
 お先は隙間から外の様子を確認してから、そっと御簾を上げる。左右を見渡し、隙を突いて走り出した。
「おいっ! 静姫が逃げたぞ!!」
 こちらに織田の手の者がやってくる。漲る殺気の激しさに、私は戦く。膝が震えてしまい、上手く走ることが出来なくなった。
「うるさ、あの木まで頑張るんだ」
「うんっ」
 満足に走ることが出来ない私は足手まといになってしまっているというのに、お先は私を支えるように走ってくれる。
 お先は私の肩に指を食い込ませたまま、力強く走り抜けた。
 織田の手の者は、何故か私ばかりw2お睨むように見ている。私はお先の足手まといになっているのだろうか。
「静姫! 覚悟!」
 不意に剣を頭上に光る。そのまま振り下ろされ、回避することが出来ない。足がすくみ、どうしていいか解らない。
 逃げることもできずに、もうダメだと思った瞬間、頭上に剣が重なる音がした。今までで一番鋭い音がする。
 より近くて、より切ない。
 お先が、私に振り下ろされた剣を、自分の太刀で受け止めてくれていた。
 相手は鍛えられた、所謂職業武士だ。だがお先は、些かも怯むことなく、むしろ吹き飛ばすような勢いで、剣を受け止めてくれていた。
 今の私に出来ることはほとんどなく、ただ、お先の無事を祈ることしか出来ない。
 私は深く祈りながら、いかにお先に護られていたことを識った。
 今だけでなく、ずっと護られていたのだ。
 大学に来てから、右も左も解らない私を、悪態をつきながらずっと見守ってくれていたのだ。
 その横顔見れば解った。
 涙が滲んで、鳴咽が漏れる。
 お先の横顔は、私が今まで見た中では、どんな瞬間よりも魅力的だった。精悍な横顔には力が漲り、誰かを護ることが出来るだろう強さを感じる。
 私は護られていたのだ、ずっとその力に。
 けれども空気のように当たり前だと思い、気付かなかったのだ。
 お先の額からは宝石のような汗が飛び散り、織田の武者と互角以上に渡り合っている。
 私を広い背中でガードをし、自分は傷を付いても構わないかのように、闘い続けている。
 お先は体格の良さで相手を上回っていたせいか、暫くの睨み合いの後で、見事に相手を振り払った。追い掛けてはこられないように、足を切り付けると、再び走り始める。
 片手には剣を、片手には私を携えて。その姿は、お伽話に出てくる王子様のようだったが、ときめく余裕など私にはなかった。
 ただ泣きたかった。
 嬉しくて、切なくて、苦しくて、感情が複雑に入り組んでぐちゃぐちゃになって、私を混乱させる。感情をどう扱って良いかが解らなかったから。
 雨が降って来た。
 頬に伝わる雫に、私は涙が隠せると思い、素直に泣けてくる。声だけを抑えて。
 織田の手の者が私たちを目敏く見つけると、多くの者が畳み掛けてくる。
 お先はそれでも、私の手を離すことはなく、片手だけで応戦してくれた。
 私もこの手だけは離さないようにしたかった。この手を離してしまえば、今生の別れがきてしまうかもしれない予感が、ふつふつと湧いていたから。
 私はただお先に総てを預けていた。命も心も何もかもだ。
 離れたら最後だと思い、私はお先の手を思い切り握り締めた。
 するとお先の大きな手が、私の総てを受け止めてくれるかのように強く握り締めてくれた。
 お姫様でも何でもないのに。お先が敬愛する静姫とは似ても似つかない私なのに、こうして命をかけて護ってくれている。
 大好きだ。本当に心からお先を愛している。
 愛なんて感情は今まではよく解らなかった。だが、今なら解る。お先への感情がまさにそれだ。
 こうして生と死な狭間に追い詰められてから、今更のように気付いてしまった。
 お先は、現代から来たとは思えないような腕で、暗殺者を倒していく。
 逃げては倒し、逃げては倒しを繰り返しているうちに、吐きそうなほどに酷い血の臭いが漂い始めていた。
 私たちは走り、振り払いを繰り返し、血のにおいに気持ち悪くなりながら、よ大きな木の下にたどり着いた。
 資格になる木の幹に躰をもたれかけると、、お先は深く息を吐く。
 よく見ると、お先の顔は疲れ果てていた。青白くなり疲労が滲んでいる。
 何時もにはない緊張感に、身も心も疲れ果てている。
 だがお先は笑ってくれた。不安に曝されている私を気遣うように、慈しむかのように。
「うるさ」
 大きな手が頬に宛てられ、私は泣いて良いのか笑って良いのか解らなくなってしまっていた。
 包んでくれるお先の手は優しさが溢れて温かいのに、どこか絶望に似た冷たさを感じる。
「有り難う…。お先…」
「礼は言うな…。言われるようなことはしていない」
 お先はくせのある前髪をかき上げると、鈍色の厚い雲を見上げる。
「----ごめん。私が鈍くさいから、織田の者に集中的に狙われて…」
 一瞬、お先は思案するかのように目を閉じる。その深さに、癒やされない苦しみを感じた。
「----お前が本当は静姫に似ていたんだよ」
「…嘘…」
 青天の霹靂のようなことを言われ、私は心臓が跳ね上がる気分になった。恐怖と重い哀しみが心を覆い尽くし、言葉が出てこない。
「…従者は余りにもお前が似ている余りに、恐れ多いと思って、俺の手を取ったそうだ。そして若様もまた、お前に重圧があってはと、わざと俺を静姫だと言った」
 私は総てのパズルが解けたような気がした。私が着物を着たときに見せた若様の眼差しは、私と静姫を重ね合わせたからなのだ。
 なんてバカなのだろうか。気付かなかったなんて。
「…私…ほんと…何も識らなくて…」
 様々な人々の優しさが私の心に震えをきたす。こんなに優しくされても、私には何も返すことが出来ない。
「…お前を見ていると…、妹が帰ってきたようだと言っていた」
「…いつ…」
「お前が夕方に寝ている時に若様がやってきて、色々と話をしたんだ…。そのまま、俺が身代わりなることも決めた」
 お先はとても落ち着いていた。静かで大人で、そして男であるが故の強さを持っている。
 不意にお先が顔を近づけてきた。初めは何をされるか、全く解らなかった。心の準備も何も出来ていなかった。
 刹那、ほんの僅か、お先の唇が、私のそれにかする。永遠がそこに凝縮されている。
 触れあうだけのたった一度のキスに、幸せと絶望の光が見えた。
 まるで今生の別れでもするかのように、お先は名残惜しげに、私から離れる。
「俺は戻る。お前は、ここにいろ。間もなく地震がくる」
「嫌だよ! 私も一緒に!」
 いくら私が言ってもお先の決心は強固だった。すっと指先を離すと、闘いに赴いていく。
 最後に投げられた一瞥は優しくて、私は愛されていたことを悟った。
「お先!」
 私が魂の奥底から叫んだ瞬間、ぐらりと躰が揺れた-----

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