忘れ潮を夢見て

8〜襲撃〜


 まだ闇に包まれた時間に、私はたたき起こされてしまった。起きるまでは、これは夢の出来事などだと思いこもうとしていた。けれどお先の深刻な横顔を見ると眠気は吹っ飛んでしまい、これが現実であると思わずにはいられなかった。
「うるさ、元の恰好に着替えておけ」
「…解った」
 お先は背中を向け、商事の向こうを見ている。その背中を見ているととても遠くて、追いつけない。今までこんなにお先を遠くに感じたことなど鳴く、私は愁いだ。
 私が着替え終わると、静姫に用意していたであろう婚礼衣装が、お先のために運び込まれる。
 目が覚めてしまうほどの白に、見事な鶴と亀が織り込まれた非常に美しい婚礼衣装に、私は思わず魅入ってしまった。
「うるさ、お前、これを気に入ったのか?」
 お先は、優しい眼差しで私を穏やかに見つめ、寂しげな笑みを浮かべる。綺麗な顔に愁いを乗せられれば、それだけで胸の奥がきゅんと音を立てた。
「女の子だからね、これでも。当然だよ」
「だったら、少し袖を通してみろよ」
「え!?」
 こんな状況なのに、ひらひらと着せ替えごっこなどが出来るとは、私は正直言って思っても見なかった。心臓が大きく一度だけ跳ね上がると、その後はハードロックのドラムのように、落ちつきなく刻まれていく。
 お先の前で花嫁衣装を着られるなんて、思っても見なかった。私は嬉しくて何故だか泣きそうになりながら、お先を真っ直ぐ見た。
「いいの?」
「どうせそれは俺のヤツじゃねぇんだし、着たいヤツが着たらいいだろう。俺にとって、これは戦闘服に過ぎねぇんだからな」
「うん、有り難う」
 触れることすらも憚れるような綺麗な花嫁衣装に、私は震える指先で触れた。こんなに滑らかなのに、しっとりとした布に触れたことは今まで無かった。私は糸を辿るように、すっと横に指を滑らせる。
「着てみろよ。羽織るだけでも良い経験だろ」
「うん!」
「だったら、私がお手伝いを致しますよ」
 忙しく準備に明け暮れていた桔梗さんは、にっこりと微笑んで、掛けられていた婚礼衣装を外してくれた。
「さあ、どうぞ、うるさ様」
 私の名前は「静」だと訂正しようと思ったが、ご機嫌な雰囲気が消えてしまうような気がして止めた。
 桔梗さんが広げてくれた婚礼衣装に袖を通すのは、正直緊張する。同時に神聖な気分になり、この身が引き締まるようだ。私もいつか花嫁になったら、こんな素敵な緊張を体験するのだろうか。そうならば、それを体験させてくれる空いては一体誰なのだろうか。
 私は、まだ心許ない恋心を抱きしめながら、お先をちらりと見た。
 お先はと言えば、研究している時よりも気むずかしい顔をしている。精微にまで整った顔に刻まれる皺は、とても知的に思えた。
 婚礼衣装に袖を通すと、ふわりと白檀の香りがして、私の心を甘く魅了する。や白檀の香りはとても好期で、艶やかで、きっと本物の静姫にはピッタリの香りだったのだろう。
 袖を通し終わると、桔梗さんが前に回って着物を整えてくれる。簡易的に袖を通したけれども、少し整えるだけでもそれらしくなる。
 鏡をちらりと見ると、苦笑する。やはり予想通りに衣装に着られている感じだ。ちんちくりんな雰囲気に、吹き出してしまう。
「お先やっぱり私には大人っぽい感じだね。似合わないや、婚礼衣装は、まだ」
 お先に声をかけると、食い入るように私を見ていた。声を掛けても気付かずに、ただ私だけに視線を注いでいる。
「お先!」
 私が笑いかけると、お先の瞳が僅かに揺らいだ。、何も知らない子供が無邪気に遊んでいるのを、寂しげに見つめる母親のような光があった。
 お先は黙っている。笑わない。
 あんなにときめいていた感情が、イベントを終えたバルーンのように急速に沈んでいった。花嫁衣装を着ていても痛いだけだ。私は沈んだ気持ちを持て余すように、着物に手を掛ける。
 私が花嫁衣装を脱ごうとしたところで、若様と見慣れない若い男性が部屋入ってきた。
「準備を始める。手早くな」
 若様は桔梗さんに命じるなり、ちんちくりんの私に視線を止める。一緒にいた若者も。若様は一瞬、何かを思い出したように目を見開いた後、不機嫌になった。どうして誰彼もがそんな顔をするのか、私には意味が全く解らなかった。
「この方が静姫様ですか?」
 男性にしては柔らかな声を出すそのひとは、ニコニコ笑いながら私を見つめてくる。
「それはうるさだ。静姫ではない」
 妹姫に間違えたのがよほど不快なのか、若様の声色は南極の氷のように硬かった。
「そうですか、残念ですね…。絵にすれば大変美しいと思ったのですが…」
 美しい、この私が? きっとこのひとは極度の近視に違いない。眼鏡が必要だろう、おそらくは。
「先の準備を始める。うるさ、お前はとっとと脱いで、着替えろ」
 私は若様の部下じゃないと思いながら、桔梗さんに手伝って貰い、花嫁衣装を脱ぐ。脱いだ瞬間、まるで大切な何かを喪うような喪失感を感じ、胸が痛んだ。
「俺は化粧なんかいらねぇからな。鬘だけで充分だ」
 お先は目の前に広げられた化粧道具を見ると、鼻に皺を寄せ、嫌悪感を露わにする。
「見たくはないが、紅だけはしてもらうからな。カモフラージュにならない」
 若様は冷静に言い、お先と視線の火花を散らせていた。
 私はもう特にすることもなく、ただ三角座りをして、お先が花嫁になる様子を眺めることにする。横に、先程の近視の男が腰を下ろし、私に話しかけてきた。
「残念ですねえ。あのひとも、まあ、確かに綺麗ですが、その清らかさが違うというか…。あなたが静姫なら良かったのですけれどね」
 男もまた私と同じようにまるで寸劇を見るかのように、お先の様子を観察している。
「あなたは何者?」
「私ですか? 私は狩野派の絵師です」
 言われてみれば刀を持つような雰囲気ではなく、むしろ筆が似合う。すると、先程言われた言葉が蘇ってきて、私は恥ずかしくて耳まで真っ赤にしてしまった。少しは自信を持っても良いのかだなんて、甘い考えを持ってしまう。
「----静姫様のお輿入れ前の絵を描くために参ったのですが、はたしてちゃんと描けるかどうか。どうおも、あなたの印象が残ってしまいましてね」
「有り難うございます」
 こんなに手放しで褒められてしまうと、私はなんだかお尻がむずがゆくなってしまう。その様子に気付いたのか、絵師はおおらかに笑った。
「気にされないでくださいね。これは私の戯言ですから」
「はい」
 それから私たちはただ静かに、事の成り行きを見ていた。
 着物を着て、唇にほんの少しだけ紅を打つお先は、本当に花嫁さんのようになっていく。その儚げな美しさに、私の胸は激しく痛んだ。男の人なのに本当に綺麗で、まるで月に戻っていくかぐや姫のようだ。その背中も、姿も、何もかもが今の私には遠くて手が届かないもののように思える。
「…流石に馬子にも衣装か…」
 若様はお先を見るなり、ホッとしたような溜め息を吐く。まるで重圧から解放されたような顔をしていた。
「準備は出来たようだな。出立する!」
 若様の声を合図に、城中の襖が開け放たれる。
「うるさ、お前も来い」
「う、うん」
 お先に手招きをされて慌てて側に行くと、手をぎゅっと握られる。もう離さないとばかりに、指をしっかりと絡められ、私は息苦しいほどの好きを感じて、思わず俯いてしまった。
 本当にお先が好きだ。誰よりも好きだという自身はある。今のお先ならきっとモテモテだろうけれど、私は誰よりもお先が好きであることを、感じずにはいられなかった。
 私たちは手を繋いだまま、用意された豪奢な籠に乗せられる。やはり大名の姫様なだけ有り、贅を尽くした花嫁道具が用意され、供の者も多人数だ。
 籠の御簾をあげ、若様が顔を覗かせる。
 うっすらと白んだ外で見る若様は、どこか疲れ果てているようにも見えた。
「達者でな」
「若様も」
「…護って貰えよ、先に…」
 若様の眼差しが、今までで一番慈しみに溢れた優しいものになった。
 胸に迫る表情に私は、ただそれしか声を掛けることが出来ず、じっとお先の手を握りしめる。すると御簾は締められ、ほどなく行列は進み始めた。
 これから本当にどうなるのだろうか。
 私がお先の大きな手を握りしめながら、僅かに震えていると、不意に抱き寄せられた。お先からはほんのりと白檀の香りがし、私の心を切なくさせる。
 ただお先に縋るように、私は祈った。
 このタイミングで地震が起きてしまえばいいと。
 不意に、籠が激しく揺れ、そのまま地面を激しく打ち付けられる。私を衝撃から護るように、お先は私を抱きしめてくれる。そのせいか、私は躰を打ち付けるようなこともなかった。
「静姫一行覚悟!!」
 殺気溢れる声が響いたと同時に、剣が激しく重う音があちこちから聞こえ、火縄銃の発砲音と、硝煙の顔例があちこちに充満し始めた------

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