忘れ潮を夢見て

10〜愛の手紙〜


 埃臭さに噎せ返りそうになって目を開けると、資料が山のように散らばっていた。
 帰ってきたのだ。現実に。私は手を口で覆いながら、視界が安堵の涙で滲むのを感じた。
 私は直ぐにお先を探す。だが、狭い研究室を見回しても、お先の姿を認められなかった。
 一瞬、私の中に不安が過ぎる。お先が帰ってこないかもしれない、重くのしかかる石のような不安が。
 私は自分の心に否定するために、直ぐに首を横に振ると、そんなことはないはずだと自分に言い聞かせた。
 同じように地震であの世界に行ったのだから、きっと一緒に帰ってこられるはずだ。ただ、少し遅れたのかもしれない。
 大量の本も、心落ち着く埃臭さも、総てはただ懐かしい。なのに、ここにはお先はいない。
 ここでお先と過ごした時間が、遠い過去のように思えてくる。それは優しい光に彩られて、永遠に褪せることがない時間だ。
 私は咳をしながら、お先を探す。欠片でもいいから、見つけたかった。
 だがそこにあるのは、お先が整理をせずに無造作に片付けていた、大量の資料本だけ。
「もう、いつもちゃんと整理をしろって言っても、お先は聞かなかったからな」
 私は目を細めながら、本棚から落ちてしまった資料本を、一冊ずつ埃を払って直していく。整理がしやすいように並べてあげれば、帰ってきたときにお先は喜ぶだろうか。しんみりとした笑みを浮かべながら、私は本を収納していった。
 本を片付けていくと、あの鎌倉彫の手文庫を見つけた。これを見たのも、遥か昔のような気分だ。私は、すっかり年老いた気分になって、手文庫を手に取った。
 まるで遠い過去を懐かしむ老婆のように、私は手文庫を開く。瑞々しい時間が蘇ってくるような空気が、そこからふんわりと立ち上ってくるようだ。それを胸一杯に吸い込みながら、私は、もう一度あの手紙を手に取る。
 色褪せない墨色は、私をあの時代へと誘ってくれる。人を癒やす優しい黄昏の光が、文字を柔らかく照らし、私の心に浮かび上がらせた。

 愛しいあなたへ。最後の手紙を綴ります。
 この手紙の意味をあなたが識るのは、ここからずっとずっと先なのでしょう。
 だけど、必ずあなたに伝わることは解っていますから、こうして筆を取ります。
 私は今、生きている中で最も冷静で、幸福なのかもしれません。
 ある意味、永遠の愛を手に入れることが出来たのですから。
 明日の朝、私は磔になります。
 もう何も言うことはありません。
 ただあなたに伝えたいだけ。
 好きです。
 そして有り難う。

 最後の言葉が涙で滲んで歪んでいる。最初に見たときに、どうして気付かなかったのだろうか。この文字は、明らかにお先のものだ。お先の文字は、男性にしては繊細で、綺麗だった。
「お先…、お先!!」
 お先への恋心が洪水よりも激しい勢いで溢れ出し、私は大声を出して泣いた。こんな風に素直に泣いたのは、初めてかもしれない。
 墨が本当に涙で滲みそうになったので、私は慌てて手紙を手文庫にしまい込んだ。朱坂城の資料館に返す前に、コピーを取ってしまおうと思う。私にとっては、至上のラブレターだから。
 私は手文庫を、まるでお先を抱きしめるように胸に抱き、暫く、じっとしていた。
 これが書かれたのはもう遠い昔。なのに先程までそこにいたなんて、俄に信じられない。
 黄昏が深くなり、蒼い闇が下りてきた。私は許される限り、研究室に篭もり、黙々と片付けを始める。
 すぐにお先が帰ってきても大丈夫なように。また、大好きな歴史の研究が出来るように、私は環境を整えてあげることに全力を傾けることにした。
 満月が昇っても、本が整理が終わっても、お先は還っては来なかった。守衛さんに声を掛けられるまで、私は研究室で月を眺めていた。
「もう閉門の時間ですよ。お帰りになってください」
「はい」
 私は闇に紛れ、家路につく。今日はなんて長い一日だっただろうか。私は、鎌倉彫の手文庫をこっそりと持ち帰り、その日は、抱きしめて寝た。だが、夢にも、お先は出ては来なかった。

 翌日も、朝陽が眩しい時間帯に私は大学に向かった。眼を眇めるほどに躍動感のある光の下で学校に行くなんて、きっと初めてだろう。
 誰よりも早く門を潜り、私はお先の研究室に向かった。
 きっとお先は還ってくるから。だから、研究室にいて、ちゃんと『おかえりなさい』を言ってあげたい。一瞬たりとも見逃したくなくて、私は授業をサボる覚悟で、研究室に篭もった。
 まだ空調が入れられていないせいか、むわっとした蒸し暑さを感じる。しかも、お先の研究室は、ほこり臭い本がたくさんあるせいで、どこよりもそう感じる。
 私はいつもお先が座っていた席に腰を掛け、窓の外を眺めた。そこは、生徒が走ってやってくるのがよく見える場所だった。きっとお先も、私が走ってやってくるのを、ここで見ていたのだろう。優しく笑って、見守ってくれていたに違いない。
 その姿を想像するだけで、また泣けてくる。ここのところ、随分涙腺が緩んでしまったようだ。
 私は、研究室のあちこちで感じられるお先の温もりを探して歩き回った。本を一冊、一冊指でなぞってみたり。こんもりと吸い殻でいっぱいになった灰皿を片付けたりして、お先がここにいた温もりを、必死になって探していた。
 吸っていた空気も、いつも汚いと言って怒っていた机の上や本棚も、今は何もかも愛おしかった。
 待つことがこんなにも苦しくて、ひたむきで温かなものだとは識らなかった。僅かな緊張感が、ときめきを生んだり、疲れを生んだり。きっとお先が還ってくるまで、私はそれを繰り返すのだろう。
 私はお先の机の上に俯せになり、だらけた猫のように大きく腕を伸ばす。
 ふと総ての気配が消えた。この世の総てが音を立ててぴたりと止まり、時間さえも動かない。総てがかき消された温かな空間に、私は放り出された。
 直ぐに解った。お先だ。お先が還ってきたのだ。私が顔を上げると、その顔をただ見つめる。
 お先は別れた時よりは少し窶れてはいたが、優しさと大きさを滲ませた、私を骨抜きにするような笑みは、健在だった。
 私は立ち上がると、お先にに駈け寄る。私たちは、お互いの存在を細胞に刻みつけるようにしっかりと抱き合うと、見つめ合う。必要な言葉はお互いにただ一言ずつだけ。
「ただいま」
「おかえりなさい…」
 言わなければならない言葉を囁くと、もう一度愛を込めて、お先を力一杯抱きしめた。

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