俺がきみを見つけるまで

1〜日本・海が見える町で〜


第一章 海が見える古都

   ***

 彼女の亡骸は、日本から十二時間もの旅をしてきたご両親に引き取られ、苦い骨となって帰るべき場所へと戻っていった。
 この国に遺されたのは俺の掌にあるペンダントだけ。それを俺はご両親に渡そうと思っていたが、いざとなってそうすることが出来なかった。
 別にペンダントが欲しかった訳じゃない。遺品は遺族に渡すべきものであるからだ。だが渡せば彼女との約束を果たせないような気がして、俺は手渡すことが出来なかった。
 不可思議なペンダントを手にして、今更どうするのかも、どうしたいのかも、今の俺には解らない。
 掌に残されたペンダントを飾っている不思議な色を放っていた天然石を、俺は凝視した。。
 今は初めて見たときと同じように色もなく、澄んだクリスタルの輝きを放っている。
 あの時、どうしてあんなにも美しく遣る瀬無い輝きを放ったのかは、俺には解らない。ただあの輝きは、彼女の命を燃やし尽くした光のよう、今となれば思えてしまう。。
綺麗でいて残酷なな光----俺にはそうしか見えなかった。
 俺は仕事をする気にもならず、相変わらず泣きそうなグレイのイングランド特有の空を見上げる。
 湿っぽい空は、いつも葬列が似合うと思う。彼女にはある意味ぴったりな空の色であり、最も似合わない空の色でもあった。柔らかな温かさが似合う女性のような気がした。
 たった一瞬の交わり。救急病院の医師と、瀕死の患者として関わり合った時間は一時間も満たない。なのに、誰にも許可をしたことがない俺のこころの一番綺麗な場所に、死んだにも拘わらず彼女は堂々と棲み着こうとしている。苛立ちとそれを受け入れようとしている部分が熱くせめぎ合って、俺を苦しめた。
 こころが熱くなったり冷たくなったりするようなおかしな気分を抑えるために、俺は煙草を唇に押し込める。なのに考えることは、この泥道を歩くような気分に深く関わっているだろう、名前しか知らない殆ど関わることがなかった女性についてだった。
 出身地すらも知らない、ただ命のリレーをするかのようにペンダントを託してきた相手。
 こんなに悪いのであれば、きっとドクターストップはかかっていただろう。俺が主治医なら迷いなくそうしたし、恐らくはベッドに縛り付けただろう。なのに彼女は命の危険を冒してまでもこの国にやって来て、そして冷たい救急病院の治療台で死んだ。
 命を掛けてまでもやらなければならなかった目的が、この国にあったのだろうか。それとも、後僅かな命だと知って、八方やぶれになってしまったのだろうか。
 いずれにしろ、どちらが真実で嘘なのかは、今となっては全く解らない。
 もし命を賭けてまでやらやければならなかった事があったとしたら、いったい何だったのだろうか。命を賭けてまでこの国に来なければならなかった意味を、俺は知りたくてたまらなくなった。
 彼女は目的を果たして死んだのか。それとも果たせなかったのかも、俺は調べてみたくなった。
 ----そして、今は俺の手のひらにあるペンダント。こんな異国の死の床で、俺のような日本人医師に、こんな大切なものをどうして託したのだろうか。俺はどうしても知りたくなった。
 どうして俺だったのか。俺でなければならなかったのか。それとも俺である必要は全くなかったのか。
 それに俺の名前を何故識っていたのか。
 それもひっくるめて俺は知りたかった。
 煙草を吸い終えると、俺は携帯電話で日本までの航空チケットを取り、その後で休暇の手続きを取った。
 日本に行きたいと思った。行かなければならないと思った。ここで行かなければ必ず後悔をするという一種の焦燥感が俺を強く駆り立てていた。
 日本。幼い頃ほんの一時期だけ棲んでいた、俺の生まれた場所。それぐらいの認識しかない。俺は赤ん坊に毛が生えたの頃にイングランドにやってきたせいか、殆ど日本での思い出はない。思い出は総て、ここイングランドでのものだ。
 俺の父親は日本人だが、母親がイングリッシュであるせいで、どちらかと言えばイングランドが故郷だった。
 日本のことなんて、殆ど知らないのだから。父親が教えてくれ、週末だけは日本人学校にも顔を出していたから日本語は理解出来るし話せるが、時折、単語が出ないことすらある。こんな俺だから、日本への造形が深い筈もなかった。
 生まれただけで、一度も足を踏み入れたこともない故郷・日本。なのに、彼女のことを識るためだけに、まさか行くことになるとは思いも寄らなかった。
 俺は彼女のことを何も識らない。日本人・30歳女性・名前は氷室紫乃。以上のインフォメーションしかない。
 手掛かりは彼女の母親が“鎌倉に帰りましょう”と言っていたことだけ。
 そんな不確かな情報で、俺は日本へ飛ぼうとしていた。
 ワーカーホリックを絵に描いたような俺が休暇届を出すと、院長はあからさまに驚いた。
 故国でリフレッシュして、新しい自分に生まれ変わりたいなどというふざけた理由に、院長は快く休暇をくれた。流石はイングランド。父親に聞いたところによる、日本ではそんな理由で休暇など取ることは許されないという。バンザイイングランド。ただし申請したものよりも随分と削られてしまったが。
 ”自分捜しは良いことだ。一回りも二回りも大きくなって帰って来なさい”などと院長の言葉に背中を押されて、俺は日本へと向かった----
 ネットで適当に宿を取り慌てていたから適当に詰め込んだバックパックとスポーツバックを持って。
 このときの俺は、あんなに不思議な旅になるとは思いもよらなかった。

   1

 自分が生まれ落ちた国にも拘わらず、飛行機から降り立ったとき、俺には何の感慨もなかった。アジア特有の湿気の孕んだ肌にまとわりつくような風と、醤油の匂い。第一印象は、外国人観光客となんだ変わりのないものだった。
 俺にとって、既に生活のフィールドはイングランドにあり、今更、日本に拠点を移そうとも思わない。イングリッシュのような生活をしているはずなのに、自分のアイデンティティを名乗る時には、ジャパニーズと言ってしまう。
 イングランドと日本。俺は二つの祖国をバランス良く見たことなんてなかったように思える。いつも生活基盤であるイングランドばかりを見ていた。俺は日本を余り識らなかったし、識ろうともしなかった。
 なのに俺は、国籍選択の際に日本を選んだ。イングランドのグリーンカードを持っているが、あくまで俺は”法の下では外国人”だ。
 鼻梁や目元、肌の色などは母を踏襲しているが、瞳の色や漆黒の髪は父親譲りで、良く言えばエキゾチックなイングリッシュ、悪く言えばどっちつかずだ。そのせいか、入国審査をしている間も、様々な人たちに何人かと探るように見つめられてしまった。
 日本で生まれたはずなのに、何故だかこの国に弾かれたような気分になりながら、俺は入官を通過し、晴れて日本の土を踏んだ。
 ガイドブックを片手に、一路鎌倉へと向かう。
 およそ二時間ののんびりとした旅の間に、俺は彼女のことを思い出す。関わったのは成田から鎌倉までの道程よりもずっと短い。『鎌倉』という手がかりだけで、今こうしてその町に向かっているなんて、俺は俄に信じられなかった。
 本当にこの先で彼女の手がかりを得ることが出来るのだろうか。どす黒い感情がせり上がってくる。呼吸が老人のように浅くなる。
 どうしてこんなに不安になるかは解らない。
 もし見つからなくても、鎌倉とやらを観光していけば良いじゃないか。大仏とかいう大きな仏像もあるらしいし。寺も多い花の美しい町と聞いているから。
 自分にそう言い聞かせてはいても、どす黒い雲の塊のような不安を完全に払拭することは出来なかった。
 こんなに遠くに来てしまえるまで誰かのことをこころに留めたのは、初めてかもしれない。男を長くやっている以上、様々な女と付き合っては来たが、ここまで誰かに執着をしたのは初めてかもしれない。しかも既にこの世にはいない人物にここまで執着するなんて、全く頭がおかしくなったと自分でも思わずにはいられなかった。
 このペンダントを託された意味がもし解らなかったら? ここに来た意味が全くなかったとしたら、恐らく俺のこころは空洞が出来るに違いない。何だか、無性にこころが締め付けられた。
 苛々を抑える精神安定剤のような煙草を口にすることも出来ずに、俺はひたすら車窓を眺める。
 アジアの大都会であるコンクリートジャングルとアジアらしい雑多な温もりが交差する東京や、どこか未来の無機質さとノスタルジーを感じる横浜を抜けて、風景は日本らしいしっとりとした緑が滲んできた。昊の色がイングランドとは違った蒼だ。ようやく昊を見る余裕が出た頃に突如、車窓は静寂で荘厳ですらある空気を纏い始めた。
「北鎌倉です」
 アナウンスが響き、電車が鎌倉に入ったのだと言うことに気付いた。こころが引き締まるような、総てを受け止めて癒やしてくれるような雰囲気が、小さな町を包み込んでいた。かつて日本の中心であった町にもかかわらず、今は小さな日本の一地方都市だと聞く。だがそこには、日本人の切ない憧れが詰まっているように思えた。
 寺の敷地を分断している北鎌倉駅から、電車は明るい陽射しを受けて鎌倉駅へと滑り込んでいく。何故だか楽園の終着駅に到着したような気分になり、俺は荷物を抱えて駅へと降り立った。
 浅い深呼吸をすると、潮の香りが感じられる。海が近い古い町は、開放感と歴史の重みが似合っていた。
 ガイドブックを片手に駅前の甘ったるい菓子を買って、江ノ電と呼ばれる電車にとりあえず乗り込んでみる。
 手がかりはこれ以上持ってはいないし、氷室紫乃を識っているかなどと、道行く人に訊いて回ることも出来ない。
 とりあえず大仏を見に行くために長谷までの切符を買った。
 日本らしい密集した家のすれすれを通って、小さな電車は古都を小回り良く緩やかに走る。電車に揺られると、懐かしくて心地良い子守歌を聴いてるような気分になった。
 長谷までの短い旅を終えて、俺はとりあえずは外国人が定番のように訪れる大仏に向かった。奈良の大仏にはちゃんと家があるのに、どうしてこちらの大仏には家がないのだとか、そんなことを考えながら、間近で大仏を見上げた。
 近くで見た瞬間、総ての邪念が頭の中から霧散し、俺は息を止める。
 彼女の手がかりが得られなければどうしようかだとか、この旅が無駄になるのではないかだとか。そんなどす黒い雲のような考えが一気に消え去り、こころが安寧するように落ち着いて行くのを感じた。
 こころが震える余りに、思考が停止する。
 仏像を見慣れていない俺は、日本人ではなくイングリッシュの視点で大仏を見上げていた。凄く静かで、凄く落ち着いている。なんて、どこかのバカな外国人観光客と同じような感想しか言葉に出来ない自分を苛立たしく思いながら、俺はしばらくの間大仏を見上げていた。
 心が静まり、頭に昇っていた悪い血が一気に下がっていく。
 ここに来る意味は、確かに俺にはあったのだと言うことを目の前の仏像が教えてくれたような気がした。同時に、俺は必ず彼女の何かを掴めるような自身を持つことが出来た。
 大仏の中に入れるということで、俺は他の観光客に混じって中に入ってみることにする。しかし、大仏の中はかなり狭くて、俺は躰をずっと曲げたままで昇らなければならなかった。恐らくは昔の日本人仕様なのだろう。俺は190センチ近い身長があるせいか、正直腰に来てしまった。これでは、昔昇った自由の女神よりも苦しい。
 大仏観光を一通りした後、俺はぶらぶらと散歩することにした。心地良い潮風に誘われるように、俺は海に足を向ける。頭を空っぽにしてぶらぶらと歩いていくと、重苦しい鈍色をした砂浜とぶつかった。
 屈託のない太陽の光が海に栄養を与えるかのように光を注いでいる。
 不意に光は屈折するように目の前の視界が歪み、俺は一瞬目を眇めた。まるで映画の中のエフェクトを見ているようで気分すら悪くなった。
 だがそれもつかの間で、直ぐに楽しい喧噪に包まれた海に戻り、気分も普段通りに戻る。
 何もかも先程と同じ風景なのに、どこか歪んでいる要に見えるのは気のせいなのだろうか。
 ----そして。俺のジーンズのポケットに入っていたペンダントが、何故だか熱を持っているような気がして、慌てて掌に乗せた。
 彼女が亡くなってから全く反応しなかった天然石はアメジスト色に変化して、今までで一番美しい光を放っている。
 俺は思わず眉を顰めた。
 この石は何を語っているのだろうか。彼女がほんの近くにいるかのように生命力溢れる光を放っている。そんなはずはない。彼女はもうこの世にはいないのだから。俺は唇を噛みしめると、再びジーンズのポケットにペンダントをなおした。だがポケットの中にある天然石はまだ熱い。
 軽く深呼吸した後、俺は浜辺に下りてみることにした。
 余り綺麗だとは言い難い海には、サーファーたちが楽しそうに並と格闘し、砂浜には子供たちの無邪気な笑い声が幾つも響いている。俺はそれらを遠くで眺めながら、重い砂浜に脚を踏み入れた。
 これが日本のビーチなのだ。俺は湿っぽい重い色をした砂を指に掬ってみる。意外とさらさらとして驚いた。色を見ているだけでは、湿ったような気がしたのだ。
「どうしたのお兄ちゃん。お兄ちゃんもお砂遊び?」
 小さな女の子の声が聞こえて俺が視界を下げると、そこにはボブカットが愛らしい5歳ぐらいの少女が俺を見上げていた。
「ねえ、あたち、ちのちゃん。一緒に遊ぼう!」
 余りに純粋な瞳を向けられて、俺は首を横に振ることが出来なかった。

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