2〜日本・海が見える町で〜
初めて出逢ったはずなのに、懐かしくて堪らない少女だった。遠い昔に無くしてしまった純粋さを持った少女で、どれほど時間が流れたとしても不変なものをもっている。 俺を見つめる大きな瞳は、無邪気さとどこか寂しさを湛えていた。 「ちのちゃんね、こっちにお引っ越ししてきたばっかりだから、友達いないの。だから、お兄ちゃん、お友達になってね」 イノセントに輝く笑顔には俺への期待を含まれている。こちらが眼を眇めても抗いきられない眩しさが溢れていた。その期待に応えられない自分に、俺は唇を歪める。 「お兄ちゃんも、遠くから来たから、お友達になっても直ぐに遠くに帰らなくてはならないんだ」 「遠くって?」 小首を傾げる少女の瞳を覗き込み、俺は言い聞かせるように言う。 「お兄ちゃんは、イングランドから来ているんだ」 「イングランド? それ遊園地?」 「あ、日本じゃ、イギリスって言うのかな。飛行機に長い時間乗らないと行けないところだ。外国だ」 ”ちのちゃん”は余計に解らないといった雰囲気で、益々頭を抱えている要だった。その証拠に、手入れされていない自然なままの眉毛をへの字に曲げている。 「外国って、アメリカじゃないの?」 「アメリカも外国だけれど、外国はアメリカだけじゃない。イギリスは…。そう、地図を書こうか」 俺は砂浜に落ちている棒きれを適当に拾い上げて、重たい色をした砂地をキャンバスに世界地図を描いた。その様子を、”ちのちゃん”は小さな身を乗り出して覗いている。時折、俺を尊敬するように見たり、太陽の光を弾いて輝く海よりもきらきらと輝いて、砂浜に描かれる地図を見ている。子供のこのような純粋な表情を見ると、こちらまでもが癒やされるような気がした。 「ここが、ちのちゃんが住んでいる日本」 「あたち、ちのちゃんじゃないよ。ち・のちゃん!」 ”ちのちゃん”は一生懸命主張をしたが、俺にはどこが違っているのか全く持って解らなかった。俺の耳が変なのか、全く同じようにした聞こえなかった。 「あ、そうか、ごめん、ごめん」 俺は苦笑いを浮かべながら、極力名前は呼ばないようにする。 「ここが君がいる日本で、こっちがアメリカ。それでイギリスはここだ。俺は小さな頃からずっとここで暮らしてる。俺たちがいる地球は、ゴム鞠みたいに丸いから、イギリスのお迎えは、アメリカのここなんだ。ちょうどここはニューヨークにあたるかな」 解っているのか、いないのか。”ちのちゃん”は何度も頷いていた。大きな瞳をくりくりと忙しく動かした後、不意に、俺を観察するようにじっと見つめた。 「何?」 「お兄ちゃん、ガイジン?」 「----半分はね」 「半分?」 ちのちゃんはまた明後日の方向を見て何かを考えているようだ。 「おにいちゃんは、イタリアーノのアイスで、半分ストロベリーで半分バニラみたいなもの?」 「はあ?」 時折、子供というのは突拍子もないようなたとえをする場合がある。俺はそんなアイスクリーム何て識らないし、逆に小首を傾げてしまった。 「お兄ちゃんにはその表現よく解らないや。とにかく、お兄ちゃんのお父さんは日本人だけれど、お母さんはイギリス人なんだ。だから半分外人で、半分日本人だ」 こんな小さな子供には中々理解し辛いところがあるのだろう。自分なりにかみ砕いて理解をしているようだったが、その様子が素直な子供らしく可愛かった。 「だけど、あたちが言ったことはあってるわ」 こまっしゃくれたすまし顔に、小さな鼻の穴を少し広げているのが、何とも微笑ましい。腹の底からの穏やかな笑顔を俺は素直に浮かべることが出来た。こんなことは初めてかもしれない。 大きな瞳で更に俺を見つめる。好奇心溢れた眼差しは、まるで俺を珍しい動物のように見ている。にんまりと笑う表情は、子供というよりは、品定めをする大人の女性のように見えた。 「お兄ちゃん、とっても綺麗な顔をちてるね。おめめなんて薄い茶色でとっても綺麗だち、お鼻もパパよりも高いよ」 相手は小さな子供が相手だとはいえ、こんなにあからさまに見つめられて、ストレートに言われると、何だかくすぐったい照れくささが背中にじわじわと上がってくる。 「それは、どうも」 ませた一言に、俺は噎せ返りそうになりながら咳払いをするように言葉を返した。 「お兄ちゃん、とっても綺麗だから、ちのちゃんお嫁さんになってあげてもいいわよ?」 すまして言う仕草は、大人の女をそのまま映しているように思える。まるで時間を早巻きしたような表情に、ほんの一瞬、息を呑んだ。 「だけど、君が結婚できる年になる頃には、俺はおじいさんだよ」 「そんなことないよっ! 早く大きくなるから待っていて…」 まるで願い事を神に一生懸命祈るかのように真剣に呟く姿は、焦って思い詰めているようにも見える。 「…待っていてね。本当に…」 念を押すように言った後に俺を見つめる大きな瞳は、何かに怯えているように思い詰めている。まるで自分の時間が余り遺されていないから焦っていると言いたげだった。 一瞬、瞳の切なさにこころを動かされる。今までなら、そんなことは子供特有の純粋な戯言に過ぎないし、大人に憧れて背伸びをしながら使う常套句なのだと思うだろう。だが目の前にいる少女にかかると、それは真実になるような気すらする。 だが現実にはそんなことはあり得ないのだ。 「きっと君の方が、俺との約束を忘れてしまうかも知れないな」 俺が苦笑いをしながら軽くあしらうように言うと、少女の瞳は烈火の如く燃え上がった。それは到底子供には出来ない瞳の機微だった。 「そんなことないよっ!」 「ごめん。じゃあこうしよう。君が大きくなって俺のことを覚えていれば…」 「覚えているよ、絶対にちのちゃん覚えてるから」 舌足らずな話し方をするくせに、この瞬間だけは酷く大人びて感じた。俺と同じぐらいの大人の女性なのではないかと、俺は思わずにはいられなかった。 「ねえ、お兄ちゃん、ちのちゃんとおままごとしない?」 「おままごと?」 少女の表情はようやく年相応の明るいものになり、俺を安堵させる。ほんの一瞬だけ俺に見せたあの大人びた切ない表情は、もうどこにも存在はしていなかった。 「おままごとだよ。ちのちゃんがねお母さん、お兄ちゃんがお父さん」 「だったら子供はどこにいるの?」 「子供はまだいないの。新婚しゃん」 幼い頬を赤らめながら、ちのちゃんは黄色い声を上げて地団駄を踏んでいる。 「ちのちゃんがおうちを今から作るから、お兄ちゃんは見ていて」 ちのちゃんは命令口調で可愛く言うと、落ちていた棒きれを拾い上げて砂浜に家の間取りを書き始める。 「ここがお台所で、ちのちゃんが美味しいご飯を作ります。で、ここがお兄ちゃんのお部屋で、ここがちのちゃんのお部屋っ! おもちゃいっぱいなの。で、これがテレビを見るお部屋で、お風呂に、おトイレ!」 小さな躰を大車輪に動かして、ちょこまかとドリームハウスを完成させていく。子供特有の無邪気さが、太陽に透けてとても綺麗だ。その無添加名美しさに、俺のこころは暫し洗われた。 「完成っ! お兄ちゃんとちのちゃんのお家だよっ!」 「随分と可愛らしいお家だね」 「だってマンションだもん」 「豪邸にしては…あ、そうか、日本じゃアパートメントのことをマンションって言うんだよな。素敵な響きだな」 俺がひとりごちていると、ちのちゃんは大きな瞳で俺を見つめ不思議そうに国技を傾げている。 「お兄ちゃん、ここ座ってくださいっ! ちのちゃんお茶を入れましゅからっ!」 「はい、はい」 俺はちのちゃんが海岸に作った”家”のリビングに入り、言われたようにそこに腰を下ろした。ジーンズだったので特に躊躇うこともない。 「では、お茶を入れましゅ」 ちのちゃんがキッチンに立ったときだった。 「シノ! シノちゃんっ! もうお帰りの時間よ?」 ちのちゃんの母親らしい女性の声が聞こえ、俺は思わず振り返った。俺と同じぐらいの年か、それよりも若いかも知れない。 「シノちゃん、早く来なさい」 母親らしい女性は困ったように早口でまくし立てながらこちらへとやってくる。その姿を見て、俺は心臓がキリリと痛むのを感じた。 一瞬、氷室紫乃がそこに現れたような気がした。生命力に溢れた氷室紫乃が一瞬底にいるようにとらわれる。 夢を見ているんだ。彼女は死んでしまったのだ。俺はこの手で彼女に死亡診断を突きつけたはずなのに。 俺は自分の瞳に焼き付いた亡霊を払拭するように、深く深く目を閉じた。長い時間旅をしてきたから、疲れていたのかもしれない。 俺は深呼吸をして、もう一度目を開いた。ちのちゃんの母親をもう一度見ると、確かに氷室紫乃の面影はあるものの、全くの別人であることが知れた。 「シノちゃん、帰るわよ」 「まだ、おにいちゃんとあそぶ〜」 母親に手を取られて、ちのちゃんはいやいやと子供らしく横に首を振っている。”ちの”ちゃんが、ようやく”シノ”という名前であることを、俺はようやく識った。 「まあ、すみませんねえ。娘が無理を言って」 「あ、いえ…」 余りに母親が恐縮するものだから、俺は立ち上がってやんわりと否定をする。 近くで見てようやく解ったが、”ちのちゃん”の母親は随分とクラシカルな雰囲気を持った女性だった。俺の母親若い頃と共通する何処か懐かしい雰囲気を持っていた。 「さあ、帰りましょう、シノ」 「お兄ちゃん、明日もここに来る? そしたらまたちのちゃんと遊ぼうよ」 「お兄ちゃんは旅行者だから、解らないな」 俺が苦笑いをしながら言うと、ちのちゃんはどこか物悲しい表情で大きな瞳を寂しそうに潤ませている。 「ねえ、ちのちゃん明日もここに来るから、絶対に来てよ。お願いだから…」 その瞳が酷く心許なくて、俺の魂の奥深くに語りかけてきた。優しく俺を癒やす濃い紅茶のようにこころに揺さぶりを掛けてくる。 「ほら、我が儘を言ってお兄さんにご迷惑を掛けないの。ほら、行くわよ」 母親はちのちゃんの手を思い切り取ると、そのまま引きずるように娘を連れて行った。 「ではごめん下さい」 「はい」 何度も俺に向かって振り返るちのちゃんを見送りながら、俺は煙草を口に咥える。考え事をする時はいつも煙草を吸う。ヘビースモーカーではないが、こうすると豊かなリラックスを得られるのだ。 思えば不思議な子だった。 ふと、俺の足元に白いハンカチが落ちているのに気付いた。きっとあの子のものだ。俺はそれを拾い上げて広げて見るなり愕然とする。 ”ひむろしの”---- その瞬間、ジーンズのポケットに入っていたペンダントの石がまた熱を帯びた---- |