俺がきみを見つけるまで

序章


 序章

 初めて彼女をリアルで見たのは、白い空間だった。
 鼻の奥がむず痒くなるような薬品の匂いと、ストレッチャーの軋む音。
 彼女は総ての色を無くしてただ無心に目を閉じていたが、その顔は、俺の人生を通り過ぎていったどの女よりも綺麗だった。
その顔を見ているだけで、まるで以前から識っていてずっとかけがえのない相手だったような不思議な気概感がある。彼女とは初対面であるはずなのに、その存在がこころの深い部分に語りかけてくるような気がした。
視線を逸らせることが出来なくて、俺はずっと彼女だけを見つめていた。
外はみぞれ混じりの雨が降り、病院の廊下は静かな白が湛えられている。白いワンピースを着た彼女と、白衣を着た俺、そして同じように白衣を着ている看護士や研修医たち。壁は病院らしい清潔感に溢れた白。
何もかも白い空間にいる俺たちは、現実とは違った空間に迷い込んでいるかのように思えた。
緊急治療室に滑り込み、診察台に寝かされた彼女を、俺は医師として診察医をした。
「折角、ロンドンに旅行に来たというのに、こんなことになるなんて可哀相だわ…」
ベテラン看護士であるジェシカの声を聞きながら、俺は彼女の容体を確認していく。俺が彼女の治療に呼ばれたのは、この病院で唯一の日本人医師であったからだ。
バイタルサインを確認しながら診察をし、医師として彼女にしてあげられることは、最早この掌に残っていないことを、俺は痛感させられた。
「ドクター・カミナガ、彼女はもう…」
 ジェシカは眉間に深い皺を作ると、遣る瀬無い溜め息を吐く。緊急治療室の誰もが悲観的な結論に溜め息を吐いたが、俺は諦めたくはなかった。ただ黙々と自分が出来る最高の処置を彼女にする。
どうしても助かって欲しかった。その命を抱きしめようとしても、もうどんなに手を伸ばしても俺にはどうすることも出来ない場所にあるのは解っている。それでも彼女の命を助けてやりたかった。
----ようやく逢えたのに、もうお別れをしなければならないのね…。
不意に透明な声が俺の意識を支配する。
何の邪念のない美しい声に、俺の意識は奪われていった。こころに抗えない紫がかった切ない色の闇が下りてきて、俺を切なく重い気分にさせる。
背筋に切なく諦めの汗が滲み、俺は浅い呼吸を何度も繰り返す。
どうして助けられないのだろうか。
彼女の白い顔を見つめていると、それは運命だから仕方がないと、彼女が囁いているようにも思えた。
「先生、バイタルサインが弱くなっています」
 研修医の声に、俺は画面を確認する。もうダメなのだろうか。いやそんなことはないはずだと、何度も自分に言い聞かせて、俺は治療を続けた。
 漆黒の長い睫毛がちらちらと揺れたかと思うと、ゆっくりと彼女の瞳が開かれた。
 奇跡が起こったのか、そんなことは俺には解らない。だが、医学的に言えばそれは奇跡に違いなかった。サインが示す彼女の生命力は、最早どんな医術でも掴めるものではなかったから。
 開かれた彼女の瞳は大いなる静寂をたたえ、澄んだ湖の水面のように綺麗だ。日本人によくあるダークブラウンの瞳なのに程よく潤んだ瞳は、深海の色のような青に見えた。
 彼女はまるで長い間探していたものに、正に今、出会えたかのような表情をすると、ゆっくりと視線で俺を捕らえてきた。
 力なんてもう出せないかと思うほどの弱々しさしかないくせに、彼女は一生懸命、自分の胸元に掛けられたペンダントを外そうとした。
 小さくてぽってりとした指先がペンダントトップに触れたときだった。先程まで、透明感が溢れるクリスタルに輝いていたペンダントトップが、突如、紫色のアメジストのように輝きを放つ。
 俺は何が起こったか、その場では上手く理解が出来なかった。今までの俺は、科学的に解明されていないもの以外は、信じない質だったからだ。
 目の前でイリュージョンのようなものを見せられても、俺は信じなかった。この世に存在する不思議な事象は、人間が作り出したものであることだと、俺は信じて疑わなかった。
 目の前に怒る宝石の変化を、俺は眉間に皺を寄せて眺める。だがそれでも信じることは出来なかった。
 俺が彼女の様子を見ている間、もどかしそうに切なそうにペンダントを外そうとしている。指先が震えて、些細な仕草ですらも苦しいようだった。
「…ペンダントを取りたいのか?」
 俺が日本語で語りかけると、彼女の瞳が安堵に包まれるかのように穏やかな明るさで輝く。瞳で俺を捕らえると、僅かに頷いた。
 俺は頷いてやり、彼女の首に大切そうに掛けられていたペンダントをそっと外した。
 俺は一瞬目を疑った。
 俺が触れた瞬間、ペンダントトップの天然石は、サファイアのように麗しく輝いていた。
 自分が今見ている光景はきっと幻影に違いない。
 俺は背筋に切なくも冷たい旋律を感じながら、彼女にペンダントを握らせた。
 すると、彼女の顔色は今までで一番穏やかで明るいものになり、小さな手で医師を縋るように握りしめる。その仕草はまるで命を石から頂いているようにしか見えなかった。
 彼女は浅い呼吸をした後、突然、俺の手を握り締める。彼女の手のひらにあったペンダントを、俺の手のひらへと移してきた。
 彼女の澄み切った瞳が、俺の顔を捕らえる。とても落ち着き慈しみ溢れる雰囲気に、俺は吸い寄せられる。
「…青慈さん…、戻ってきてね…」
 発せられた声は清流のように綺麗だった。
 俺の瞳の奥に隠れている一番清らかな場所に語りかけるように、彼女は囁く。俺の両手を包み込むように握りしめる。もう命がないと思えないほどの力強さと、穏やかな温かさで俺の手をしっかりと握ってくれた。
 俺は時間を止めたように身じろぎできない。たとえ髪の毛一本ですらも動かせないような気がした。背筋には甘くて切ない震えが走り抜け、俺のこころの一番大切な場所をそれが満たしていく。一生、俺はこの切ない痛みから逃れられないような気すらした。
「…あなたにようやく出逢えて良かった…。あなたにようやく気付くことが出来て、良かった…」
 まるでひんやりとした無機質な空間にでも囁きかけるように呟くと、一瞬、彼女の視線が遠くなる。
「…戻ってきてね…。必ず私を見つけてね…。本当の私を見つけられたときに…、どうかそのペンダントを渡して…」
 まるで言いたいことを言い終えたとばかりに彼女は大きく息をすると、園からだを一度だけ大きく弛緩をさせた。一瞬、瑞々しい生命力を湛えた彼女の幻影が、俺の視界を横切ったような気がした。
 彼女は躰を大きく揺らした後、診察台にぐったりと横たわった。
 ----終わったので。何もかも。
 彼女はきっと俺に伝えるべきことを総て伝え終えて、その使命を終えたのだ。
 バイタルサインを見れば0を這っている。頭の芯に響く嫌な高音の金属製の音が、緊急治療室にこだましていた。
 彼女の顔を見つめると、大きな仕事を名し終えた後のように満足感に満ちあふれて、何の未練も残っていないように思えた。何も思い残すことなどないと囁いているようだ。
 俺を取り囲む世界が沈黙をする。
 結局、俺は彼女に何もしてやれなかった。ただ、一方的に彼女が話す夢心地の戯言を聞いたのに過ぎない。いつもの俺ならば絶対に信じないことだ。掌に握りしめたペンダントも、きっと棄ててしまったのに違いない。
 だが、彼女は俺の名前を識っていた。初対面の筈なのに、遠い昔からの知り合いかのように彼女は俺のことを識っていた。俺にとって彼女がなんなのか、結局は訊けぬままだった。
「…あんた、狡いな…」
 もう聞いてはいないだろう彼女の骸に、俺は唇を噛みしめながら話しかける。
 本当に狡い女だ。自分の言いたいことだけを言って消え去るなんて。俺の気持ちなんて少しも考えてはいないだろう。
 泣きたくなるぐらいに胸が締め付けられ、呼吸が苦しくなる。なのに泣けない。こんな痛みを俺は今まで識らなかった。この痛みの意味を識るには、やはり彼女が何者であるのか。俺に何を伝えたかったのか。それを調べるしかないのだろうか。
「ドクター…」
 ジェシカは切なそうに眉間に皺を寄せると、皺が刻まれたぽっちゃりとした手で俺の方を慰めるように叩いてくれた。
 俺は追い立てられるように彼女の骸から離れる。残された手がかりである、手のひらに残されたペンダントを見つめた。答えはきっと、コンペンダントトップが識っている。
 俺が答えを請うようにその石を見つめると、囁くように青く光っていた----
 俺の旅が始まった日は、彼女の命日だった。
 彼女の名前は、氷室紫乃と言った。

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