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就業のチャイムが鳴り、派遣や契約社員の子達が一斉に立ち上がる。 勿論、契約社員である三崎さんも例外じゃない。 三崎さんは榊君に仕事を片付けるように促した。 「素敵なクラブなんだよ。きっと榊君も気に入ると思うよ。後、企画営業からも何人か来るんだよ。加賀見さんを口 説き落とすのに時間がかかって大変だったんだよ」 まだ就業中のスタッフが多くいたが、そんなことは構わないとばかりに三崎さんはハイテンションな声で話している。 ミーティングスペースのパテーションの奥から出て来た榊君と目があった。 「長谷川さん、本当に行かないんですか?」 「仕事残っているし、週末に仕事を残したくはないんだよね。ゆっくりしたいから。だからやっていくよ。もうすぐ新しいブランドのお披露目ショーがあるし、色々とやらないとね。たまには同世代で楽しんできて」 こころのなかがもやもやとしているくせに、私は笑顔さらりとした表情しか向けられなかった。 偽善者にでもなった気分だ。 どうして嫌われるのを恐れて、いつも笑ってばかりいるんだろうか。”嫌われたくない症候群。”そんな嫌な病に冒されている自分が嫌で嫌でしょうがなかった。 「…榊君、皆を待たせているから行こうよ」 まるで彼女を気取るかのように、三崎さんはベッタリと榊君の腕に絡んだ。 見ているだけで、胃の上の辺りがキリキリと痛くなってくる。不快過ぎて涙が零れてしまいそうだ。ふたりが目の前で密着しているのを見るだけで、不快指数が高まってきた。 「ふたりともいってらっしゃい」 私は特に感情がないように話すと、パソコン前にクールに向かう。だが、その眼差しはずっと榊君と三崎さんを端っこで追っている。 「行こう、榊君。夜は待ってはくれないからね」 三崎さんは楽しそうに言ったが、榊君は一瞬、私を睨み付けた。その視線の冷酷さに、私は背筋を震わせた。不快さと甘さか滲んだ不思議な震えが背中を走り抜ける。 「いってらっしゃい」 感情なく言った後、ふたりはそのまま楽しそうに歩いて行く。 全身の筋肉が緊張から解き放たれて、切ない脱力を感じた。 どうして素直になれないのだろうか。 傷付くのが怖くて、駄目だったことのことばかりを考えてしまって、いつも足が竦む。 馬鹿にされたらどうしようだとかばかり考えてしまう。 恋にはいつも臆病で、積極的になれない自分が嫌で嫌で泣きたくなった。 どうしてそんなに怖がりなのだろうか。この怖がりぶりはなかなか治りそうにない。 ふたりが完全に視界から見えなくなると、私は溜め息を大きく吐いて強張っていた肩から力を抜いた。久々に緊張したせいか頭の芯が痛い。鎮静剤を一錠だけ煽るように飲むと、私は冷静を装って仕事に向かった。 集中して仕事をしているはずなのに、私の脳裏には榊君の笑顔と抜け目ない三崎さんの笑みでいっぱいだった。 「なんだ、お姉ちゃんも居残り組?」 夏乃の声がして顔を上げると、多岐川さんとふたりで夜食用のサンドウィッチの袋を持って立っていた。 「なっちゃん、多岐川さん」 「あんまり無理するな。ブレイクする気分で軽い夕食でも取ろう」 「お姉ちゃんが真剣に仕事をしているのが見えたから、多岐川さんとふたりでお姉ちゃんの分もちゃんと買ってきたから」 「有り難う、なっちゃん」 夏乃はキョロキョロと辺りを見回して、小首を傾げるように私を見る。 「れんれんは?」 恐らく榊君に逢いたかったのだろう。子犬のように愛らしい雰囲気をたたえて、私を見つめている。 「榊君は、うちの三崎さん主催の歓迎会に行ったわよ」 「えーっ! 歓迎会ってあんなのコンパじゃんっ! あの女がれんれんを狙ってるって噂を聞いたことがあるけど、まさか それにれんれんが行くなんてっ!」 夏乃はハイテンションで呆れ返るように言うと、あからさまに不機嫌な皺を眉間に寄せる。 「あいつ絶対バカだよっ!」 夏乃は思い切り空気を貯めて言った後に、口を尖らせた。 余りに可愛い怒り顔。私はそれを見ているだけで癒されるような気がした。 夏乃にとって榊君は大切なボーイフレンドだろうから、憤慨するのはしょうがないだろう。 夏乃は相変わらず馬のように鼻息を荒くしていた。 「あいつ、明日、ちゃんと言い聞かせてやらないと! あんな下心丸見えコンパに行くなんて、阿呆がすることだもんっ!」 「勇ましいな、姉さんと違って」 多岐川さんは面白がるように夏乃を見ている。くつくつと喉を鳴らして愉快そうに笑っていた。 「お姉ちゃん、れんれんに冷たくした!?」 夏乃は私に迫るように言うものだから、その勢いにたじたじになってしまった。 「え、あ、別に怒ってもいないし、冷たくもしてないよ」 「長谷川春乃が一番そういうことをしそうにないだろうが」 多岐川さんはさらりと言うと、アイスコーヒーを口に含んだ。 「そうですけれど…。だったらお姉ちゃん、れんれんに、コンパ行けだとか言った?」 「当然でしょ? 榊君が行きたいのに行けないっていうのは嫌だったし、同じチームのひとに誘われているんだから、行くと良いと言うのが当然でしょ? だって人間関係も会社ではとても必要だからね」 「ったく…。お姉ちゃんは真面目過ぎるんだよっ!」 「それは俺も思うな。たまには妹のようにはじけてみても良いんだ。むしろお前にはそれを勧めるね」 多岐川さんは低いよく通る声で、冷静沈着に話をする。本当に二人して痛いところを突いてくる。 「あんなコンパ、親交なんかに全然ならないよ。罠だからね。私も誘われたけれど、行かなかった。そんな時間が あったら、仕事を覚えられるじゃん。あんなのに私の貴重な時間を使いたくはない」 キッパリと夏乃が言い切る姿はとても男前で、私は羨ましくてしょうがなかった。 夏乃は“ハンサムウーマン”という呼び名がよく似合う。 私もそうなれたら良いのに。 素敵に強く立ち回る妹に、私は嫉妬すらも感じていた。 何でも持っているなっちゃん。私が欲しいものは総て手に入れているような気がする。 例えば、榊君? そんな考えが頭に浮かんで、私はそれを払拭するかのように、慌ててサンドイッチにかぶりついた。 軽い夕食を食べ終え、夏乃たちが部署に戻ったあとで、パソコンに向かったが、少しも捗らなかった。 三崎さんが前から榊君を狙っている。 そんな事実が頭のなかでぐるぐると回ってしまう。 もし榊君が、三崎さんの押しに陥落した時、私はどうしたら良いのだろうかと思った。 ふたりが肩を並べて微笑みあう姿を想像するだけで、心臓の中心がチクチクと痛んだ。 ふたりが今どうしているのかだとか、榊君の肩に三崎さんが寄り掛かっているのではないかと思ってみたり。 益々苛々が溜まり、私は上手く仕事に集中出来なくなっていた。 何時まで経っても仕事の効率が上がらない。にこうしていても無駄なので、私は仕事を打ち切って帰ることにした。 翌日、正直言って、会社に行くのが苦痛でたまらなかった。 嫌な想像ばかりが膨らんでしまう。 三崎さんと榊君カップルが成立したのではないかと、気が気でない自分がいた。 パソコンの前で溜め息を吐きながら、私は戦闘グッズである、伊達眼鏡をかけた。 「おはようございます、長谷川さん」 いつものように爽やかに挨拶をして、榊君は元気いっぱいに私のデスクにやってきた。 「おはよう、榊君。昨日は楽しかった?」 私はわざとクールに振る舞うと、気にも止めない風にパソコンに向かった。 「…そうですね…そんなには…」 榊君が口ごもったところで、派手な声が聞こえた。 「榊君、おはよう! 昨日は楽しかったよね! もう、最高だったよ!」 三崎さんが榊君の横に来て、朝からは濃厚すぎるスマイルを送っている。爽やかな榊君とは対照的に、何処か夜の香りを残しているように私は思えた。 「あ、おはようございます、三崎さん」 「長谷川さん、昨日の続きしても良いですか?」 三崎さんは榊君を媚びるように見た後で、私に何処か冷たい笑みを浮かべる。 そんなにあからさまにしなくても、あなたの欲しいものに私は興味がない----そう自分に言い聞かせて、私は細心の注意を払ってあくまでクールに振る舞った。 「ごめんなさい、今日は午前中から榊君には一緒に会議に出て貰うことになっているの----それと」 私は背筋を正すと、イヤミにならないように、そして無機質な仕事人間に見えるように、こころを凍り付かせる。 「榊君がうちのチームに配属されるとは限らないから、研修は広く浅くして欲しいの」 一瞬、三崎さんの顔は、いつもの可愛らしさをなくして不快感を滲ませた表情を浮かべた。 「はい…」 ちらりと私を睨み付けると、渋々引き下がるように自分のデスクへと向かう。きっと、私のことを、鼻持ちならないお局だと思っているだろう。でもそれで構わない。会社は恋をしに来る所じゃない。仕事をしに来るところなのだから。 「有り難うございます」 榊君の表情は安堵とどこかぎらぎらとした焦燥が感じられ、私のこころは揺れる。 そんな男らしい表情を見せられてしまうと、益々寄りかかりたくなるから。 私は足がガクガクと震えるのを感じながら、立ち上がった。 立ち上がって横の並ぶと、私は榊君の肩ぐらいしかないことを思い知らされる。 男と女の違いを見せつけられるような気がして、私の心は甘いときめきで停まらなくなった。 だが、そんな夢のような感情を持ってはいけない。期待してはいけない。 もう傷つくのは嫌だから。恋なんてしないと決めたから。 私は自分の”臆病な理性”という名の意志に必死にしがみつくと、榊君の一歩前を歩き出した。 週末、私は長谷の実家へと帰った。 いつも精神が極限に疲れたときなどは、帰るようにしている。 犬の散歩と、両親が営む蕎麦と甘味の店を手伝うこと、そして海を見ることが何よりもの精神安定剤になる。 榊君が現れてから、私のこころはおかしくなってしまったかのように落ち着かない。 そんな思いを吹き飛ばすために、私は長谷にいた。 いつものように着物を着て店を手伝いながら、地元の幼なじみと話をして気を紛らわせる。 ひとりは由比ヶ浜で小さなカフェを営む芙蓉----彼女とは小学生の頃からの付き合い。もうひとりは、高校の時からの付き合いである仁哉君。今は地元の高校で教師をしており、偶然にも妹の冬乃の担任でもある。 私たちはいつものように他愛のないお喋りに華を咲かせながら、ゆったりとして休日の時間を過ごしていた。 「らっしゃい!」 お父ちゃんとお母ちゃんの合唱が店に響くと同時に、戸が開く音がする。 それを合図に振り返ると、そこには榊君がいた---- |