「四季恋船」
この恋の総て〜春乃の場合〜

8


「こんにちは、長谷川さん」
 Tシャツにジーンズ姿の榊くんは、いつものスーツ姿よりも更に若々しく見えて、眩しかった。
 しかも、いつもよりも躰のラインが出ていて、背中や胸が強調されている。決してマッチョではないけれども、無駄なく筋肉がついた張りのある身体はしなやかな獣のようだ。
 瑞々しく若々しい雄だ。
 私は体温が一度上がるのを感じながら、まるで女子高生のように視線を外してしまった。
「夏乃なら、横浜に出掛けているよ」
「夏乃に逢いに来たんじゃありません。蕎麦を食べに来たんです」
 榊君はどこか余裕があるように笑い、私をじっと見ている。
 甘くて何処かギラギラしたまなざしを、私は正視することが出来ずに、逸らせてしまった。これではどちらが年上なのか、全く解らない。
「じゃあ座って、メニューはこちらだから」
 私はなるべく榊君を見ないようにしながら席に案内をすると、メニューを目の前に差し出す。
 これでは好きなひとの前で挙動不審になる女の子のようだ。
 好きなひと…?
 そんなはずはないのに。榊君はただの後輩で、トレーニング期間が終われば、私から離れて行く存在なのに。
「注文は決まっています」
 榊君は甘く良く通る美声で呟くと、メニューを見ることなく、私を見た。
 テーブルに肘をついて、顎の下で指を組む仕草は、大人の男の魅力に溢れていた。
 ひょっとすると彼は私よりも本当は老成しているのかもしれない。そう考えると、胸が甘く切なく疼いた。
「天ぷらせいろをお願いします」
「天ぷらせいろ。かしこまりました」
 私は蕎麦屋の従業員らしく頭を下げると、父に注文を通す。
「天せいろひとつお願いします」
「はいよっ!」
 カウンターから顔をひょっこりと出した父が、榊君を見るなり、懐かしそうに目をまるくした。
「榊君じゃないか! 久し振りだねー」
「こんにちはおじさん。お元気でしたか?」
「お陰様で元気に働かせて貰っているよ」
 まさか父と顔見知りだなんて、私は思ってもみなかった。
 思わず目を見開いてふたりを交互に見てしまう。
 それだけ夏乃に逢いたくて、足げに通っているのだろう。そう考えると、何故だか厳しい痛みがこころを貫いた。
「お父ちゃん、榊君と知り合いなの?」
「夏乃のゼミ仲間で、うちでよくみんなで勉強してたんだよ。榊君はひとりでもよくここまで来てくれていたんだが、最近は、仕事が忙しいからって、来てなかったんだ」
 頑固で静かな父が饒舌になるのだから、榊君はかなりお気に入りなのだろう。話し振りの軽やかさも、今までの夏乃のカレと比べたら各段だった。
「久し振りに長谷川さんから蕎麦の話を聞いて、食べたくなったんですよ」
 榊君は爽やかに笑顔を浮かべて、父を見ている。
 夏乃とは父親も公認の仲なのだろう。
 それを思うと、胸の奥が吐きそうなぐらいに痛んだ。
「じゃあごゆっくり、榊君」
 何故だかむしゃくしゃしている気持ちを、私はクールに装うことで解消しようとしていた。
 私は、榊君から逃れるように背中を向けると、仲間たちの輪にわざと入って行く。
「春乃、じゃあこんな感じで準備しようか」
「うん、そうだね」
 榊君を私の世界から疎外してしまうのは、やはり大人げなかったかもしれない。だけどそうしなければ自分の気持ちや立場を守れそうにないような気がした。
「仁哉くんは、会場のセッティング。芙蓉がプレゼント係、私は統括ね」
「それが一番あってるだろう」
 ふたりをダシにしてゴメンとこころのなかて謝りながら、私は打ち合わせに集中するふりをする。けれども私の意識の九十五パーセントは、直ぐ近くにいる榊君に向いていた。
「春乃! 天せいろ上がったよ!」
「はい、ただいま」
 父の声に飛び上がりそうになりながら、私は出来上がった蕎麦を取りに行った。
「天ぷらせいろです。どうぞ」
「有り難うございます」
 榊君が笑顔で返してくれたのが眩しくて、私は頬を染めてときめいているのを知られたくなくて、俯いてしまった。
「長谷川さん、あちらにいるのはお知り合いですか?」
 さり気なく友達の様子を見ている榊君に、私はやんわりと口を開く。
「そうだよ。ふたりとも良い友達なの。長い付き合いなんだよ」
「“春乃”って呼ばれていたので、かなり親しいのかと思ったんです」
「ずっと何をするのも一緒だからね」
 自慢のふたりの友達。素晴らしくて私には勿体ないんじゃないかと思うほどの友人を、自慢するように言った。
「羨ましいです」
 しみじみと言う榊君に、私は嬉しくてつい笑顔を浮かべてしまう。
「でしょ。ふたりは私の自慢だよ」
「…いいえ。長谷川さんではなくて、お友達が」
「え…?」
 一瞬、私は息を呑んだ。褒め言葉? それとも社交辞令? 嬉しいのか恥ずかしいのか区別が出来ない照れが奥からせりあがってきて、私は顔を真っ赤にさせる。
「長谷川さんにそう言って貰えるお二人が、俺はとても羨ましいです」
 ストレートな一言を面と向かって言われると、余計にドキドキしてくる。いつもよりもかなり大胆に見える榊君に、私はどうして良いか解らなかった。
「…あ、ゆ、ゆっくり食べていってね 」
「はい、有り難うございます」
 榊君が涼しげに笑うのを盗み見ながら、私は逃げるように慌ててカウンターへと逃げ帰った。
「春乃、俺たち帰るから」
 仁哉君は立ち上がると、芙蓉の分も含めた代金をテーブルに置く。
 今の私の救いの神たちに何処かに行かれてしまったら、私はどうして良いのかが分からなくなってしまう。
「ちょっ、ちょっと、もうちょっとゆっくりして行かない?」
 私は引きつった笑顔を浮かべながら、仁哉君と芙蓉を見つめると、ふたりはやんわりとした見守るような笑みを浮かべる。
「ちゃんと向き合わないとね。それに私も…ちょっと疲れちゃったしね…」
 芙蓉は優しい声でそっと私に耳打ちをすると、穏やかな笑みを浮かべた。
「あ、そっか…。うん、無理しちゃ駄目だもんね。ゆっくり休んでね」
 芙蓉は躰の調子が余り芳しくなく、今日も儚い雰囲気を醸し出している。それが私には心配でならなかった。
 芙蓉は高校生の頃に原因不明の難病を発症して、それからずっと静かに病と闘っている。その病がまた激しく暴れださないかと思い、私は気が気でなかった。
「大丈夫だよ。しっかり休んでるから。秋夜君がうちにアルバイトに来てくれているから、助かっているし」
「こき使って良いからね。 バカ弟なんか」
「有り難う」
 芙蓉はにっこりと笑うと、静かに入り口へと向かう。それを見守るようにして仁哉君が後へと続いた。
「じゃあ、またね」
「うん」
「じゃあな」
 店先まで出てふたりを見送った後、私は店に戻ると、今度は父親に助けを求めるようにカウンターに入った。
 お父ちゃんは私の気持ちをさり気なく察したのか、静かに口を開く。
「春乃、ポチの散歩に行ってきてくれ。久し振りだから喜ぶだろう」
 父親からの提案は、私にとっては何よりもの助け船になる。
「じゃあ、ちょっと行って来るよ」
「長谷川さん」
 背後から声を掛けられて、振り向くと榊くんが立ち上がっていた。
「俺も連れていってくれますか?」
 私は断る理由を探そうと、先ずはテーブルの上にある蕎麦に視線を落とす。しかし残念なことに、蕎麦はきれいに食べ終わってしまっていた。
「春乃、気分転換に蓮君にこの辺りをご案内しなさい」
 いつお父ちゃんの信頼を勝ち得たのかは解らないけれども、榊君は相当気に入られているようだった。
 逃れられない。これじゃあお父ちゃんは、救いの神どころか、私を緊張地獄に突き落とす悪魔だ。
「解った。じゃあ榊君行こうか。店の前で待ってて」
「はい」
 私は溜め息を吐くと、家の裏にいる愛犬を連れに行った。
「ポチ、散歩行こうか久しぶりに」
 年老いたポチに目を合わせると、嬉しそうに笑ってくれたような気がする。私は首輪をリードに繋ぐと、ゆっくりと店先へと出る。
 緊張する。
 何だか、憧れの人と散歩をして舞い上がる女子高生みたいな気分だ。
 早くこんな熱は冷まさなければと思いながらも、どこかこのときめきに乗ってみたい自分もいる。
「お待たせ、行こうか」
「はい」
 榊君は華やいだ色香のある笑みを浮かべると、私に並んで歩き始めた。
 私は平均身長はあるが、榊君の横に立つと何故だか急にホビット族にでもなった気分になる。
「長谷川さん、着物似合ってますね」
 またストレートな賛辞に、私はリードを持つ手に力を込めてしまった。
「あ、これは、うちの店のユニフォームです」
「だけど似合ってますよ。可愛いです」
「…あ、有り難う」
 素直に礼をながらも、恥ずかしくて堪らなくて、耳まで真っ赤になってしまう。
 恋愛に馴れていない私は、こういったさりげない賛辞だけでも直ぐにドキドキしてしまい、恥ずかしさが爆発しそうになるのだ。
 優しい相模湾に滲む夕陽が、私たちを包み込む。
 ちらりと榊君を見ると、とても綺麗なのにどこか男らしさを漂わせていた。
 私よりも10ほど年下だけれども、男の子ではなく男なのだと思わずにはいられない。
 誰かの顔を見るだけで、心臓がマラソンを始めてしまうなんて、拓海のことを好きだった時以来なのかもしれない。
 大好きだった人。
 恋人になれそうでなれなかった人。
 あの時以来だ。
「長谷川さん」
「何?」
「長谷川さんのこと、春乃さんと呼んで良いですか?」
「え?」
 一瞬、榊君は何を言うのかと思った。
 ひょっとして夏乃の姉だからそう呼びたいのかも知れない。
 少し胸が痛んだが、私は大人の先輩らしく小さなことに拘らずに了承することにした。
「会社では長谷川さんにして。けれど、こうして普段に逢うときは、そう呼んで良いよ」
 私が年上の女を気取ってわざと余裕のある女を演じるように笑うと、榊君の瞳が一瞬不敵な笑みを浮かべる。
「有り難うございます、春乃さん」
「どういたしまして」
「俺のことも蓮と呼んで構わないですから」
「え、あ、それは、まあ…」
 いきなりこちらがドキリとすることを言うものだから、私は思わず口ごもってちゃんとした返事が出来なかった。
「俺、春乃さんがちゃんと”蓮”と呼べる日まで待つつもりでいますから」
 夕陽を浴びながら爽やかな明るい笑みで言われても、今の私には眩しすぎて、どんなリアクションもすることが出来ない。
「また、こうして、散歩を一緒にしてください。俺、鎌倉に来るのは好きですから」
「そうだね。私がこっちに帰るときには…」
 そんなことなんて起こるのだろうか。
 私はそんなことを考えながら、いつもより短く感じる散歩道をポチと一緒に歩いた。

 店の前まで戻ってくると、いきなり懐かしい影がひょっこりと姿を現す。
「春乃!」
 店の前には、拓海が立っていた-----




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