「四季恋船」
この恋の総て〜春乃の場合〜

6


『れんれんはずっとお姉ちゃんに必死だったじゃん』
 ----夏乃があんなことを言うものだから、私は昨夜からドキドキが止らずに、余り眠れなかった。
 こんなにときめいたのはいつ以来だろうか。きっと自分でもびっくりしてしまうぐらいに前に違いない。
 何だか色気付いた雌猫のように短いスカートのスーツを着て、まるで夏乃に張り合うかのような格好をしてしまう。
 夏乃に比べて、全然綺麗なんかじゃないのに。ただの色気ないオバサンの脚なのに…。
「お姉ちゃん、やっぱりスカート履いてもキャリアっぽくて羨ましいな…」
 珍しく夏乃が弱気な発言をするものだから、私はそっと肩を叩く。いつも元気いっぱいで、前向きで少し勝ち気な夏乃は余り弱い面を見せない。だからこうして、弱さを見せてくれるのが、私は何よりも嬉しかった。
「あなたは若々しくてカッコいいわ。私が羨ましいって思えるぐらいにね」
「お姉ちゃん」
「だから自信持ちなさい」
「…うん、有り難う」
 はにかんで笑う姿を見ると、小さな頃の夏乃を思い出す。活発でサバサバしたところがあったが、それ以上に純情な子だった。
「れんれん、今日はお姉ちゃんばっかり見ているよ。多分」
 幾分か調子を取り戻したのか、夏乃はからかうように笑いながら呟く。私を見つめるまなざしは、どこかいたずらが好きな妖精のように輝いていた。
「…そんなことはありません。榊君だって選ぶ権利はあるでしょう? トレーナーだから、私を立ててくれているだけよ。私みたいに十歳近くも年上のオバサンなんて選ばないから」
 自分で言った言葉のくせに、私はそれなりに傷付きながら、わざとこころなど乱れていないことを強調しようとした。
「お姉ちゃん! 間違ってるよっ! だってお姉ちゃん、凄く綺麗なんだよっ! オバサンなんかに見えないって!」
 夏乃はいつもでは考えられないほどに熱く言うと、私を睨んでくる始末だった。
「…そんなことないよ。私は充分にオバサンだよ。熱い恋とかから出てしまった人種なんだから。ほら、そんな顔をしてないで。さっさと行こうよ」
「お姉ちゃん…」
 夏乃の気持ちは嬉しい。
 だが、今の私は傷付くことに臆病になり過ぎて、恋はもう一歩も先を歩く事が出来ない。
 長い時間を掛けて私が作り上げた壁を粉々に壊す男は、もう現れそうにないから。
 朝の陽射しや夏乃を眩しく思いながら、私は無意識に目をすがめていた。あの光の世界は私には眩しすぎて、決して見る事はないと思いながら。

 オフィスに入ると、マグカップにコーヒーを淹れて歩いていた榊君が、人懐っこい子犬のように走ってきた。
 男らしくて綺麗で完璧なのに、どこか憎めない可愛さを持った彼に、私はくすりと笑った。
「長谷川さんっ! おはようございます」
「おはよう、榊君…」
 視界の近いところに入ってくると、流石の私も意識をしてしまう。
 こんなに生命力が溢れて、瑞々しい若さのある男らしさが、私には切ないぐらいに甘酸っぱいレモンのように思えた。
 頭を切り替えなくっちゃいけない。
 何時までも乙女モードではいられないのだ。榊君は私の大切な後輩だ。そして私はそれを育てるトレーナーなのだから。きちんと社会人として立たせてあげないといけない。
 榊君に何時までものぼせ上がることは出来ないから。
 私は何とか気持ちを切り替えると、背筋を伸ばした。
「榊君、今日はクライアントのところに行くから準備しておいて」
「はい!」
「…加賀見さんと私とあなたの三人だけで…」
 榊君の表情が一瞬、苦々しいものになる。綺麗な顔をしているから、余計に表情が目立った。
「加賀見さん、一緒なんですか」
「加賀見さんの仕事ぶりを見るのも勉強になるから」
 私はまるで小さな子供を言い聞かせるような気分になりながら、榊君に落ち着いた笑みを送った。
「…俺はあなたの仕事ぶりのほうが勉強になると思っています」
 お願い。ストレートにそんなことを言わないで欲しい。ときめいてしょうがなくなってしまうから。
 私をこれ以上、甘くて切ない気分にさせるのは止めて欲しい。
 もう叶わない夢を見られるほど若くはないから。
 もう新しい恋に飛び込めるほど若くはないから。
「有り難う」
 私は素直に礼を言ったあとで、ノートパソコンに向かった。
「榊君、昨日、イベントのこと、色々と調べていたよね? 良かったら、今、少しだけ時間があるけれど、説明しようか?」
 榊君に声を掛けてきたのは、イベントプランナーの三崎さん。彼女は短大を卒業してうちに入ってきたので、榊君とは同じ年だ。可愛いくて、どこか小悪魔な雰囲気がある彼女は、男性社員にかなり人気があった。
 冷静に見れば、榊君を狙って近付いてきたのだろう。
 一瞬、彼女の若さと行動力が羨ましく思えた。
 真っ直ぐと榊君を見つめる三崎さんの瞳は活き活きとした色気があり、女の私でもくらりと来てしまう。きっと榊君も、彼女のストレートなアプローチには好ましいのに違いない。
「俺、その…」
 榊君はちらりと私にお伺いを立てるように見る。いずれレクチャーを頼まなければならなかったから、ここは許可することにした。
 いつも私にぴったりだと息も詰まるだろうから。
 それに同じ年の女の子のそばの方が、榊君にとっては良いかも知れない。
「じゃあ三崎さんお願いするね。時間が経ったら呼ぶから」
「解りました」
 榊君はどこか本意ではないような顔をした後、三崎さんと一緒にミーティングスペースへと向かった。
 辺りを見ると、若い女の子たちがざわめいているのが解る。
 榊君が来てから数日で、まるで熱病のように人気が盛り上がっていた。
 私と一緒にいるときは、きっとオバサン上司だから恋愛は有り得ないと思っていたのだろう。だが三崎さんは違う。
 明らかに悪意と嫉妬が混じりあった視線が注がれていた。
 私は榊君の恋愛対象としては周りが見てはくれないのだ。
 現実を目の当たりにして、私はようやく今朝の夏乃の言葉を振り払うことが出来た。

「長谷川さん、行きましょうか」
 拓海が部署にやってくるのが見え、私はスタイリストバッグを肩に掛けて立ち上がった。
「加賀見さん、待って下さい。榊君も一緒ですから」
 そのままミーティングスペースにいる榊君のところに行く。
 そこからは三崎さんのくすくすと甘えたような笑い声が聞こえていた。
 三崎さんはアプローチを掛けるように、榊君にかなり近く接近している。
 何とも思っていないはずなのに、何故だか胃の奥がキリキリと捩れるぐらいに痛んだ。
「榊君、時間だから」
 感情なんてかけらもない無機質で険悪な声が無意識に出てしまい、三崎さんが顔を上げた。
 一瞬、睨み付けられたような気がしたが、何とかそれを無視する。
「すみません、直ぐに行きます」
 榊君は丁寧に言った後で、三崎さんに丁寧に礼を言う。
「行きましょう」
 榊君は直ぐに自分のスペースから鞄を取ってくると、私たちに並んだ。
「お待たせしました。加賀見さん、宜しくお願いします」
 榊君は昨日の態度からは想像出来ないほどにしおらしく言うと、拓海に丁寧に頭を下げた。
 私は鼓動が速くなるのを感じながら、ふたりの間に入る。
 何故だか過去と未来の狭間にでもいる気分だ。
「長谷川さんの交渉はとても勉強になるから、しっかり覚えておけよ」
 拓海は榊君に駄目出しをするように言うと、一歩先を歩く。
「はい。加賀見さんの営業ぶりも勉強させて貰います」
 榊君は直ぐに拓海に追いつき、同じ歩幅で歩き始めた。
 私は少し下がった位置でふたりを見つめながら、早いうちに、仕事ぶりも榊君は拓海に追いつくだろうと思った。

 このふたりを従えるように、私はクライアントの受付に向かった。
 受付嬢の女の子たちも、驚いてこちらを見ているのが解る。
 拓海は甘く精悍な顔立ちをしているし、榊君はうっとりとしてしまうぐらいに綺麗な顔立ちだ。そんなふたりを従えるように私がいるのだから、驚くのも当然だ。
 何の取り柄もない私が、女王のように男たちを従えているのだから。
「高山部長とお約束をしております、美英堂の長谷川と申します。お取り次ぎ下さい」
 私はいつも以上に凛とした雰囲気を出そうと必死になっていた。
 ふたりの雰囲気に負けるわけにはいかなかったから。

 無事に商談も終わり、ホッと力を抜くとお腹が空いて来た。
 街を行き交う車の音で私の腹の虫の叫びは消されてしまう。
「春乃、昼メシどこかで食って行くか?」
「仕事たまってるから、出来たら手早いのが良いよ。うどんかラーメンだね」
「俺も同感。榊は?」
「俺はそばかラーメンが…」
「だったらそこの、うどんそばの店にするか」
 拓海は手早く店を決め、私たちはその後ろを着いていく。
 拓海の決断が早いところが、私は好きだった。もう昔々の話だけれども。
 私たちはランチタイムと微妙にずれていたこともあって、すんなりと座ることが出来た。
 男ふたりは、天ざる定食を注文したが、私はあんかけ野菜うどんを注文した。
「相変わらず、外では蕎麦は食べないのか」
 拓海は懐かしそうに言いながら、麦茶の入ったグラスを揺らす。
「…そうか。長谷川さんのところは、長谷の蕎麦屋さんでしたよね」
 榊君はなるほどとばかりに頷くと、麦茶で喉を潤していた。
「どうして…、あ、なっちゃんか…」
「そうです。夏乃情報です」
「私は父さんが打つ蕎麦が一番だって思っているからね。それだけだよ」
 父の打つ蕎麦は昔から絶品だと思っている。だからそれ以外の蕎麦なんて、食べたくはなかった。
「また、おやじさんの蕎麦、食べたいな」
 拓海はしみじみというと、懐かしそうに軽く溜め息を吐いた。
「長谷は遠いけれど、父さん喜ぶよ」
「ああ。関西にいる間、おやじさんの蕎麦が懐かしかったからな」
 拓海は私の瞳を見つめて、懐かしそうに目を細めた。
 きっと昔の私ならば、こんな視線一つだけで有頂天になったことだろう。だが、拓海との恋に破れたことで、特殊部隊の防弾チョッキよりも頑丈なガードが私の心の中に出来、それは年々硬くなる。もう、無防備になることなんて出来ないんじゃないかと思う始末だ。
「俺も、蕎麦、食いに行きます」
 榊君はポツリとぶっきらぼうに呟くと、私を実直な眼差しで見つめてきた。
 いつかどこかで見たことがあるような気がする。記憶の奥に埋もれていたかのような眼差し。その懐かしさに、私のこころはノスタルジックな思い出いっぱいになった。
 暫くして、それぞれの注文したものがやってくると、私たちは無言で食べることに集中する。
 何だか奇妙な空間に放り込まれた気分だ。不作法にずるずると無言で音を立てながら、麺を食べるなんて、なんだか今の私たちを象徴しているように思えた。
 奇妙で、何処かしっくりと来る風景。重苦しいのに、何処か心地が良かった。

 拓海はそのまま次の営業先に向かい、私は榊君とふたりで帰社をした。
 すると手ぐすねを引いたように三崎さんが、朝よりも濃いと思わずにはいられないばっちりメイクで、私たちを迎えてくれる。
「榊君、今朝の続きどうする?」
 三崎さんは私に挨拶することもなく、真っ直ぐ榊君を見つめた。
 榊君はまた、私に答えを請うように見つめてくる。それを三崎さんが苛立っていたのは明らかに明白だった。
「そうだね。続きレクチャーして貰って」
 私はもやもやとした感情を抱きながら、冷たくもあっさりと言い棄てることしか出来なかった。これでは玩具を取り上げられた拗ねた子供だ。
「じゃあ、榊君行こうか。トレーナーのお許しも出たたし。あ、そうそう、今日ね、うちの部署の若手チームの飲み会があるからおいでよ」
 飲み会という名の合コンであることは明らかだ。そんな会合、私はもう長い間参加していない。飲み会に参加をしても、あくまで会社の仲間と仕事がらみで楽しく飲むぐらいだ。
「あ、あの、長谷川さんは…」
 榊君の言葉に、三崎さんが一瞬、私を睨み付けるように見る。大丈夫、そんな顔をしなくても若人のバカ騒ぎには参加しない。
「遠慮し解くわ。じゃあ、三崎さんよろしくね」
 私は榊君の顔を見ることもなく。自分のデスクに戻る。
 その瞬間に、何故か溜め息がこぼれ落ちた。




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