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「多岐川さん、ご一緒して良いですか?」 拓海の姿を複雑な気分で見つめていると、多岐川さんが察するかのように口を開いた。 「ああ。俺の横に来い」 「はい、失礼します」 眩しいぐらいに輝いている拓海の真っ直ぐな笑みに、私は思わず目を伏せてしまう。拓海がちらりと私を見たのは解っていたが、それを無視するようにビールで喉を潤した。 「加賀見くん、久し振りだねぇ! 春ちゃんと新人の頃、終電までの僅かな時間によく食べに来たよねえ! 懐かしいね」 「そうですね。あの頃は本当に楽しかったです……」 相変わらずの甘い声で呟く拓海の言葉には、どこか寂しげなノスタルジーが感じられる。 「春乃ちゃんは終電早かったからねぇ! だけどよく頑張ってた」 「長谷だから、ここからだと終電が早くて」 おじさんに言いながら、私は串カツを豪快に頬張る。 あの頃は、拓海と過ごす終業後の一杯が私の気持ちを癒してくれていたものだ。 だが懐かしいだけで、私はもう過去の住人なんかじゃない。あれからずっとそう思っていたのに、どうしてそんなに胸がチクチクとこそばゆい痛みを抱いているのだろうか。 「おい夏乃、お前は終電良いのかよ」 榊くんはとても親しげに夏乃に話し掛ける。その声はとても瑞々しい男らしい。私にならそんなに砕けた話し方なんてしない。何だか立場や年齢の差を思いしらされているようで嫌な気分になった。 「大丈夫だよ、今日はお姉ちゃんのところに泊まるから気にしないよ」 「……なるほどね。確かにここから鎌倉までは距離があるから」 榊くんが納得するように頷くと、拓海がこちらに身を乗り出すように見つめて来る。 「春乃、今は都内で一人暮らしなのか?」 まるで昔にタイムトリップしたように親しげに話されて、私は窒息してしまいそうになるほどの苦しい感情を思い出した。 「都内じゃないよ。横浜に住んでる。ここだと横浜は近いし、終電も遅いから」 「なるほどね」 拓海はふと寂しげに目を細目ながら、以前と同じように煮込みを美味しそうに食べていた。 「いやあ、こうして、多岐川さんと春乃ちゃんに加賀見くんがいると、十年前に戻ったみたいだねえ」 しみじみと呟くおじさんに、私は甘苦しい感覚が込み上げてきた。 あの頃はこうして三人でよく反省会のようにここで遅すぎる夕食を取ったものだ。いつの間にか、拓海とふたりで来るようになり、終電に遅れそうになって、手を繋いで駅まで走っていったものだ。 それももう遠い昔の話だ。 甘酸っぱくて、今でも胸の奥が苦しくて切なくなる思い出だ。 けれどももう私は握りしめた手は、ほかの女性のものになっているから。私はふと、拓海の左手に視線を向けて、違和感を感じた。 指輪がない。 背筋にゾクリとした感覚が走り抜けて、私はそこから目が離せなくなっていた。 「……長谷川さん、どうしたんですか、食べないんですか?」 心配そうに覗き込んでいる榊くんの綺麗な瞳がいきなり視界に飛び込んできて、私は驚く余りに滑ってこけそうになった。 「大丈夫ですか、長谷川さんっ!!」 榊君の筋肉が綺麗についた腕が、私の腰に食い込んでくる。全身全霊で護られているような感覚が全身を走り抜け、甘くて重い感覚に目眩を感じた。 恋を知り、何も出来なかった少女の入り口の頃のように、甘いさくらいろのリズムで心臓がワルツを踊った。 男らしい体臭と爽やかなグリーンティが混じり合った香りが鼻孔を擽り、喉がからからに渇いてしまう。 「……だ、大丈夫だよ、有り難う、榊君」 何とか言葉を発すると、私は姿勢を立て直そうとした。なのに、榊君は少しも話そうとはしない。それどころか、榊君の指が腰に食い込んでくる始末だ。 腰の周りが甘く痺れてしまい、どうしようも出来ない。 私がおろおろとして戸惑っていると、榊君は一瞬おかしそうに薄く笑った。これでは本当にどちらが年上なのかが解らない。 私が助けを求めるようにおじさんを見ると、名物のおにぎりを私の前に黙って差し出してくれた。 「おにぎり食べるから」 「俺はおにぎり以下ですか?」 榊君が近すぎてどうにかなってしまうほどに酔いが回ってしまう。 「そ、そんなこと、ないけれど。おにぎり好きなんだ」 「おい、榊、春乃を離せ」 落ち着いているのに恫喝した雰囲気のある声で、拓海が榊君を制する。 ちらりと榊君を見ると、全く動じていないようだった。私の前では、どこか従順な子犬のような雰囲気を醸し出すのに、今はオオカミのように鋭い。 拓海がその雰囲気にけ落とされてしまうのではないかと思うほどに、榊君はきつく睨み付けている。だが無論、拓海が負けるはずもなく対抗するように睨んでいた。 「しょうがないなあ、れんれんは。お姉ちゃんはおにぎりが大好きだから、離してあげなよ」 余裕なのかどうかは解らないが、夏乃はくすくすと笑いながら、まるで榊君を諫めるように呟いた。榊君は溜め息を吐くと、私の腰からようやく手を離したが、それが何故か切なくて重くて仕方がない。 まるで夏乃の気を惹くためにやっているように思えて。 いつも美味しいと感じるおにぎりも、何だか味気がなくて機械的に頬張ることしかできなかった。 「長谷川さん」 榊君にまたくすりと笑われる。彼の前にいると、自分がずっと年上であることを忘れてしまいそうだ。 「唇の横に、ご飯粒がついてますよ」 「え、あ、マジで?」 小学生以下なことを指摘されてしまい、私は慌てふためいてしまう。指先でご飯粒を取って、誤魔化すように口の中に入れる様子を見ながら、榊君はくつくつと喉を鳴らして笑っていた。 「可愛いですね、やっぱり」 そんなことを言わないで。 特に拓海の前では。 「も、もうお腹いっぱい。なっちゃんは食べ終えた?」 私は榊君の視線から逃れるように、夏乃に視線を這わせると、夢中になって多岐川さんと話をしていた。 「あ、何、お姉ちゃん」 「私はご飯食べちゃったけれど、なっちゃんは?」 「うん、私はまだ…」 夏乃はここを離れがたいかのように呟き、ちらりと多岐川さんを見る。多岐川さんは時計を見ると、夏乃をまるで父親のような眼差しで見つめた。 「もう遅いからな。若い女の子の帰りがあまり遅くなるのは良いことじゃないだろう」 長谷川さんの言葉に、私と拓海は思わず顔を見合わせる。 私のトレーナーだった頃の多岐川さんはもっと厳しくて、私も終電時間ギリギリまで仕事することもしばしばだった。だが、多岐川さんにも確実に時間が流れ、抜き身の剣のような鋭さがなくなり、代わってどのようなことでも受け止められる強さが備わっていた。あれから10年近く経ったのだと思わずにはいられない。 拓海もあの頃に比べて落ち着き、しっかりと自分の足で立っているように思える。 なのに----私だけが足踏みしたままになっている。 「俺も飯を食ったら帰るか。明日また仕事があるしな」 多岐川さんは昔と同じように鯛茶漬けを注文し、それをさらさらと流し込んでいく。拓海も同じものを頼んで、軽く食事を終えていた。 「奥さんが怒るよ」なんて言いそうになったが、私はその言葉を結局は呑み込んでしまう。 まだわだかまりがあるのだろうか。 そんなことはないはずなのにと、自分に言い聞かせていると、榊君と目があった。 いつも以上に男の眼差しをしていて、私は戸惑うことしか出来なかった。 結局、私たちは全員同じタイミングで店を出て、家路へとつく。 「では、長谷川さんまた明日」 「また、明日」 爽やかに挨拶をしてから家路に着く榊君を視線で見送りながら、私は、少しだけ華やいだ気分になった。 私は夏乃を連れて、まだまだ「我が家」と思えないマンションへと戻る。 「お姉ちゃんは良いな、会社から近くて」 「あなたも私の年になったら会社の近くに住めるようになるわよ」 「そうだったら良いけれど」 夏乃は大きく伸びをして夜空を見上げると、希望が滲んだ瞳を輝かせ夜空を見上げる。 とても綺麗だった。 家に戻ると直ぐにお風呂の支度をし、布団を客間に敷く。 「悪いね、お姉ちゃん」 夏乃は化粧を落としながら爽やかな笑みを浮かべて言った。 「研修中は大変だからね。さっさと寝るんだよ。特に多岐川さん厳しいしね」 「うん、そうだね。ね、お姉ちゃん」 私を呼ぶ夏乃の声が、一瞬、心許ない子供のように揺れる。小さい頃何か心配ごとがあると見せていた声の調子だった。 「お姉ちゃんの頃さ、多岐川さん、厳しかったの?」 「うん、かなり厳しかったな。あの頃は、終電ギリギリまで絞られて大変だったよ。あの頃は多岐川さんは今の私より若かったから、かなりエネルギッシュだったよ」 「そうなんだ…。お姉ちゃんは10年近く多岐川さんと知り合いで、ずっとその変化を見てきたんだ…。ねえ、多岐川さんってどういう風に変わってきたの?」 夏乃は身を乗り出して、私に訊いてくる。私を見つめるきらきらと瞳を輝かせていて、とても綺麗だ。本当に綺麗な子だ。自慢の妹。 「私もそんなに詳しくはないけれどね。あれから10年近く経ったし、多岐川さんも色々あったもの。今の多岐川さんは以前よりも素敵で、大きい存在のような気がするな」 「…私もその変化、見ていたかったな…」 しみじみと呟くと、夏乃はじっと私を見た。 「お姉ちゃん、れんれんのことさ、どう思ってるの?」 「え、あ、何?」 先程まで多岐川さんの事を訊いていたくせに、突然榊君を訊くなんて反則。私は心臓の奥が痛くなるぐらいにドキリとして、肌が火照るのを感じた。 「れんれん、お姉ちゃんのことばっか見てたよ」 夏乃はニヤニヤと笑って言ったが、私はクールな大人を装うように溜め息をわざと大きく吐く。 「何言ってるの、なっちゃんの気を惹くようなことばっかりしてたじゃない」 「はあ? お姉ちゃんこそ何言ってるのよ。れんれんはずっとお姉ちゃんに必死だったじゃん。まあ拓海さんが傍にいたから当然だろうけれどね。拓海さん、離婚して戻ってきたらしいし」 離婚? 拓海が? 夏乃が今まで話してことが総て吹っ飛んでしまい、私のこころのなかには「拓海が離婚した」という事実だけが刷りこまれてしまう。 そんなことは一生あり得ないと思ったのに。 不思議と嬉しくはなかった。 ただこころが痛かった。 |