「四季恋船」
この恋の総て〜春乃の場合〜

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 会場の準備はいよいよ終わり、イベントに参加してくださる一般公募のゲストをお迎えする。
 私も、榊君も入り口に立って、新製品のマスカラと主力のスキンケア用品のサンプルを入れた紙袋を配った。
 化粧品のイベントということもあり、20代から30代のOLが殆どだ。
 榊君から紙袋を渡された女性たちは、ほんのりと喜んでいるように見えた。
 つくづく榊君はもてる子だと思う。長身にモデル並みのスタイル、優美さと精悍さが兼ね備わった容貌が揃っていれば当然だろう。
 最後のゲストに紙袋を渡し終えて、会場のドアが閉じるのを見届けると、榊君が無邪気に笑いかけてきた。
「いよいよ始まりますね」
「そうだね。ここに来てくれた人たちの反応で、商品の今後の行方が決まるわ…。見極めないとね」
「そうですね。俺もこの人たちの反応を見たいです。長谷川さんが企画をしたこのイベントを楽しむ顔を見てみたい」
 榊君は力強く言うと、凜とした華のある笑顔を私に向けてくれる。
 癒やされる笑顔。このままその笑顔にこころを預けることが出来たら良いのに、生憎、私にはそうする術が解らない。どうして良いのかすら解らない。
 ハイヒールとスーツで武装したビジネスウーマンとしての砦が、あっさりと崩されてしまうような気がして切なかった。
「じゃあ、舞台袖に行こうか。イベント、いよいよ始まるよ」
「はい」
 私は、榊君を従えて舞台袖で待機をする。イベントの進行や準備状況を知るために、榊君とふたりで無線機を着ける。
 いよいよ本当の意味での戦闘開始。
 そして、こんなにも榊君が私の近くにいるのも、とりあえずはこれが最後だろう。
 ステージは照明が落とされ、来週からオンエアー予定のマスカラのCMが流れ始める。
 CMは全部で3パターン用意されており、3人のCMキャラクターがそれぞれのCMに主演している。
 ひとりは去年のミスユニバーサル世界1位の梨緒さん。日本人として50年ぶりに「世界で一番美しい」と認められたひとだ。凜としたグローバルな美しさを持っている。
 ふたりめは世界的モデルとして活躍する玲亜さん。日本人として初めてイタリアンヴォーグの表紙を飾った女性で、文字通りの”スーパー・モデル”だ。180センチの長身と、人間工学的に最も整っていると言われる骨格を持つ、まさにモデルになる為に生まれてきた人。
 最後のひとりは、アカデミー賞にもノミネートされた女優の渡辺鈴さん。その演技力とオリエンタルな美貌で世界を席巻している、まさに旬の女優さんだ。
 彼女たちを口説き落とすのは、かなり骨が折れた。去年から交渉を開始し、CMの撮影時間も限定される中で行った。
 このCMには社運をかけており、広報部としても一大プロジェクトだ。
 フィルムの中では、美しい陽射しのなか、麗しい女神たちが、更に華を咲かしている。
 本当に綺麗な映像だ。
 15秒の中で、映画のようなストーリー感を出したかったが、その意図は、見事に反映されていた。
 ちらりと舞台袖で同じ映像を見ているCM監督に視線を這わせると、親指を立てて笑ってくる。私も思わず親指を立てて笑った。
 観客を見ると誰もが映像に釘付けになってくれている。映像の美しさ、出てくる女性の美しさ、そしてマスカラを着けるさりげない仕草が映し出されると、誰もが、このマスカラを付けると、この人たちのように美しくなるのではないかと憧れの眼差しで見つめてくれる。
 嬉しかった。
 映像の最後に、『美は世界基準へ----グローバルビューティ』と、黒字のバックに、くっきりとした白の文字で大きく映し出されると、会場から溜め息が漏れ、拍手が溢れ出る。
 客席の反応にホッとしていると、榊君の視線を感じる。
 眩しいぐらいに甘い視線に鼓動を高めながら、私は榊君を見上げた。
「この反応を見れば、成功ですね。きっとCMも話題になり、商品もヒットするでしょう。長谷川さんの苦労も報われますよ」
「そうだったら良いんだけれどね。そうあって欲しい」
 私が願いを込めて力強く呟くと、榊君は「絶対に成功します」と肯いてくれた。
 世の中に『絶対』なんてないとは思うが、榊君が言えばそうなると確信が出来る。不思議だ。
 きっと榊君が『絶対』なんて言葉を多用する子じゃないからかもしれない。
 このイベントが成功して総てが上手くいくという確信がどこからともなく溢れてきて、根拠のない自信と笑顔に繋がる。これもきっと榊君のお陰なのだろうと思う。
 私が笑みを零すと、榊君はこころごと包み込むような笑みをくれた。
 私のこころを大きく包みこんでくれる笑顔。癒やして、そして元気をくれる笑顔だ。
 ステージ上では、今回のCMキャラクターたちが登場し、割れんばかりの拍手が会場に響き渡る。
 そして、彼女たちのメイクを担当した、うちの専属メイクアップアーティストを交えた、ビューティトークショーとメイクレッスンが始まった。
 袖から見ると、スポットライトを浴びている彼女たちは本当に美しい。意思を持った凜とした女性はなんて美しいのだろうかと思う。
 トークショーの行方を見守りながら、私は、このイベントが成功することを確信していた。

 イベントが終了し、最後のゲストを見送り、私はホッと胸を撫で下ろす。
 来て下さった皆さんが一生懸命書いて下さったアンケートの重みをずっしりと感じながら、私はイベントスタッフから受け取った。
 沢山貴重な意見が書かれているアンケートは、私たちにとっては最も大切なものだ。おみやげに入れていたマスカラの使い心地のアンケートを受け取るまでは安心できないが、今日のメイクレッスンで使ってくれた時の使い心地を参考にして次の戦略を考えなければならない。
「よくやったな。長谷川」
 イベントの総括をしてくれた多岐川さんが、さりげなく肩を叩いてくれる。その後ろにひょっこりと夏乃が顔を出して、私に親指を立てて爽やかに笑ってくれた。私も笑顔でそれに答えた。
「これで一つのステップを越えたに過ぎませんから。明日からは、また別のプロジェクトが始まります。新しいCMは、モデルや女優を使うのではなく、一般の方を使う予定ですから、出演者を捜す所からまた頑張らないと」
 私は気を引き締めると、多岐川さんを真っ直ぐ見上げた。
「アンケートを持って社に戻ってから帰ります。個人情報だから厳重にしないと」
「頼んだ」
 私は多岐川さんに頭を下げると、アンケートをスタイリストバッグに入れて会場を後にする。護るように榊君が着いてきてくれた。
 電車に乗り、会社のある自由が丘まで向かう。個人情報をなくしてはならないから、少し緊張気味だったせいか、殆ど榊君と話すことはなかった。
 会社の金庫に個人情報を片付けた後、私は溜め息を吐く。
「終わりましたね」
「そうね」
 これでひとつの仕事が終わり、明日から新しいプロジェクトに身を置くことになる。そして、榊君のトレーニング期間も今日でおしまい。配属は明日発表されるが、本人には既に内示されていることだろう。
 ひとつのプロジェクトが終わった寂しさとは何処か違う、胸の奥がキュンと痛くなるような痛い寂しさがこころの中を漂う。
「さてと、帰ろうか」
「はい」
 私たちは会社を出て、ゆっくりと駅へと向かった。
「今日で終わりだね。榊君の研修も」
「お世話になりました、長谷川さんには本当に」
 榊君は新人の紋切り通り言葉と表情を私に向けてくる。
「私こそ有り難うね。榊君には色々とお世話になったね。有り難う」
 私は本当にこころからの感謝を込めて、榊君に礼を言い頭を下げた。
「…俺こそ、長谷川さんと一緒にいられて嬉しかったです。仕事への前向きさだとか沢山教えていただきました」
 榊君は歩くのを止めると、私に真っ直ぐ見つめてくる。
「俺、開発営業に配属されることになりました」
「----開発営業…」
 私はこのまま榊君が広報関係の仕事をすると思っていただけに、驚いて息が上手くできない。動揺していることを知られたくなくて、私はわざとクールに装った。
「多岐川さんのところだね」
「開発営業の加賀見さんのチームに俺と夏乃が配属になりました。長谷川さんのチームとも接点がありますから、これからもよろしくお願いいたします」
「これからも、よろしく」
 開発営業----夏乃と同じ。それだけで躰の奥から言いしれない嫉妬が吹き上げてきて痛くなる。
 それに明日から、榊君が横にいなかったら、私はどうするのだろうか。
 そんなことを考えるだけで、胸がまた痛くなった。
 ふたりで駅のホームに立って、電車を待つ。
 電車に乗り込んだ後で、沈黙が嫌で私はわざと明るく口を開いた。
「----本当に彼女たちは綺麗だったね。羨ましいぐらいに」
 車窓に映る榊君の甘さの含んだ精悍な顔をちらりと見つめながら呟く。すると榊君は、甘く切ない色を帯びた熱情的な眼差しを私に向けてきた。
「----イベントに対して一生懸命の春乃さんのほうが俺は綺麗だと思いました」
「え…」
 榊君の声は至って真摯で嘘を吐いていると思えない。こんなにも実直に言われて、私は心臓が止まってしまいそうになるぐらいに甘いときめきを感じた。
 足に力が入らない。
「榊君…」
 私が頬を染めて長身の榊君を見上げたところで、彼の最寄り駅に電車は滑り込んだ。
「それでは、また」
「あ、うん、また」
 降りていく榊君を見送りながら、私は恋する女子中学生の気分になっていた。


 翌日から、オフィスには当然のことながら榊君がいない。
 なんだか胸がぽっかり穴があいたようで切なかった。
 つい、オフィスで榊君の姿を探してしまう。
 それだけで寂しくてしょうがないのだろう。
 大人の女を自負しているのに、恋に初心な女の子のような気分になる自分がとても情けなかった。
「春ちゃん、寂しそうだけれど、どうしたの?」
 給湯室で一緒になった、10歳上の大先輩である橘さんが声をかけてくる。橘さんはマーケティング部の部長で、私の憧れのひとだ。
 コーヒーを片手に微笑みながら、私を探るように見つめてくる。
「榊君がいなくなったからじゃない?」
 妖艶に微笑みながら、橘さんは図星を突いてきた。
「あ、そ、そんなことは…」
 百戦錬磨の橘さんの前では、やはり誤魔化すことなんて出来ない。
「----誤魔化さないの。年下男は良いわよ。私たちには良い美容液になるから」
「…美容液…」
 美容液----確かに、榊君の存在は、私のこころを満たしてくれた。瑞々しく若々しい気持ちを思い出させてくれた。そう言う意味では、私にとっては”美容液”だった。
「そう。女を綺麗にするための美容液よ。自分に素直になるのよ春ちゃん。年上だからって構えないことよ」
「橘さん…」
 橘さんはフッと微笑むと、私を見守るような優しい眼差しを向けてくれた。
「榊君もきっとあなたのことを好きなのね。あなたが一歩踏み出したら上手くいくはずよ。勇気を持ちなさい」
 人生経験が豊かな橘さんの言葉はとても重い。
 私は素直に微笑むと、小さくそっと肯いた。


 結局、榊君と接触のないまま週末を迎えた。
 詰らない一週間だった。
 榊君がいる間は、それだけ張り合いを持ちながら仕事が出来ていた証拠だろう。
 静かな土曜日。
 ゆっくりと洋画のDVDなどを見て、休もうと思ったときだった。
 インターフォンが鳴り、私は慌てて出る。
「はい?」
「私だよ? 夏乃。ケーキを持って遊びに来たんだ。ねえ、開けて」
「うん、待っててね」
 玄関のセキュリティを解除した後、私はお茶を沸かして、夏乃をLDKで待つ。
 紅茶を呑むのが大好きで、色々な茶葉を集めている。その中で何にしようか選んでいた。
 家の前のインターフォンが鳴り、私がドアを開けると、そこには榊君だけがいた。
「---こんにちは、春乃さん」




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