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「榊君…。夏乃は?」 夏乃と一緒に遊びに来たのだろうと思い、私はきょろきょろと辺りを見回した。だが、夏乃の影すらも見あたらない。 「夏乃はマンションの玄関で帰りました。ここまで頼んで連れてきて貰ったんです」 榊君は霧笛楼のケーキの箱を掲げて見せ、いつものように魅力的で大人なのにどこか少年のような笑みを浮かべている。 「とにかく入って。散らかっているけれど」 「有り難うございます」 薄いピンクのパーカーとジーンズ、それに二つ括りなんて姿は、とてもでないが榊君には見せたくはなかった。だがしょうがない。隠してもここにいるんだから。 夏乃め。 心の中で悪態を吐きながらも、こっそりにんまりと笑う自分がいた。 「リビングのソファにでも座って? えっと、ハーブティと紅茶、珈琲もあるよ。友達がカフェをやってるから少しずつ横流しをして貰っているんだ」 「だったら珈琲でお願いします」 「解った」 小さなコーヒーメーカーで珈琲を点てながら、ときめきと緊張が交互に襲ってくる。 対面キッチンの影から榊君を見ると、本当にキレイで整った今時の男の子だなあと、心から感心する。私が若い頃----こう表現する自体、年を取ってしまった証拠だけれど----は、こんなにキレイな男の子は少なかったとつくづく思う。 パーカーとジーンズというカジュアルなスタイルの榊君は、スーツ姿よりも親しみが持てて、同時に少年のようにも見えた。 愛猫キャットが、榊君に媚びを売るように近付いてくる。流石は雌猫お目が高いと心の中で思ってしまう。 「春乃さん、この子の名前はなんて言ううんですか?」 「キャット」 「----は? まんまですね」 「”ティファニーで朝食を”でオードリーが飼っていた猫と同じ名前」 「なるほど。まんまだけれどぴったりですね。この子には」 榊君はのんびり言いながら、猫の相手をしてくれている。その姿を見ていると、つい笑みが零れてきた。 こんな休日をこの場所で過ごすなんて思っても見なかった。ここは静かに休養する場所だと思っていたが、こうして榊君がいるだけで、素晴らしき場所に思えてくるのが不思議だった。 「すみません、午前中から押しかけてしまって。夏乃が早くから起きているから大丈夫だって言うので」 「丁度掃除も終えたところだから良いタイミングでした」 夏乃は、私の生活がステレオタイプなパターンに陥っていることを、誰よりも解っている。だからそのタイミング通りに榊君を連れてきたのだろう。 私は、頂いたケーキを皿に載せ、コーヒーを淹れる。榊君はいつもブラックだったからそのままで、私はカフェオレでないと珈琲を飲むことが出来ないから、そうした。 「どうぞ。ケーキは有り難く頂くよ。霧笛楼のケーキは大好きなの」 「そう仰ると思っていました。俺も霧笛楼のケーキは好きだから」 「気が合うね。ケーキは」 私はあくまで先輩らしくクールに振る舞ってみたが、逆に榊君にくすりと笑われてしまった。 「春乃さん、全く説得力がないですよ。そんな女の子みたいな恰好をしてその態度は。もっと春乃さんらしく普通にしてください」 榊君は本当にケーキよりも甘くてうっとりとしてしまうような極上の笑みを浮かべると、、私を真っ直ぐ見つめてきた。 蜂蜜よりもとろりとした、眼差しで見つめられると、ドキドキしてしまってどうして良いかが解らない。耳の奥が熱い。 どうすることも出来ないぐらいに榊君を意識してしまい、私は眼差しを下に向けることしかできなかった。 私は誤魔化すようにケーキをフォークで大きくカットして頬張った。 それを見た榊君はまた笑う。その笑みは私を最高に幸せにするが、同時に切なくもする。どうして私はもう少し遅く生まれてこなかったのだろうかと。 そんなことを言っても、もうしょうがないのだけれど。 「春乃さん。ついてますよ?」 「え?」 そんな子供じみた食べ方をしてしまったのかと、私が慌てて唇の周りのクリームを取ろうとすると、榊君のほうがフッと笑って先に指を伸ばして取ってしまった。 「あ…」 「本当に可愛いですね、春乃さんは」 「もう。先輩をからかうんじゃないです」 私がわざと怒ったように言うと、榊君は婀娜めいた笑みを意味深に唇に浮かべた。 「からかってないです。それに俺はこんな可愛い春乃さんを他の男には見せたくはないと思っていますし」 「…え…」 榊君の言葉が余りにストレートに独占欲を伝えている物だから、私は胸の鼓動を轟かせながら思わず彼を見た。 私が素っ頓狂な顔をしているからか、榊君はくすりと笑い私の頬をスッと一度だけ撫でた。 これではどちらが年上か解らない。 恋愛に関しては、榊君がイニシアティヴを握っているのは確かだ。今まで臆病すぎて傷つくのが怖くて、好きになっても誰にも一歩を踏み込むことが出来なかった。植物のように受け身でしかない。それは今だって変わらない。 いつか誰かが受け身でも手を差し伸べてくれると思っていたところもあるかもしれない。まるで王子様を待つお姫様のようだ。 私が恋愛慣れしていない女そのものの態度でいると、榊君は私の瞳を慈しむように見つめてきた。 「----春乃さん。今から俺はとても怖い話しをします。良いですか?」 「こ、怖いって?」 こんな時に怪談でもするのかと想いながら、私は狼狽えてしまってほんの少しだけ身を引く。 「怪談とかじゃないですよ? ホントに春乃さんはかわいいな 私の考えることなんて何もかもお見通しだと言わんばかりに、榊君は微笑んだ。 「あ、あの…。先輩にそのようなことを」 「先輩面はしないで。少なくとも俺の前では」 榊君は男気があるような声でピシャリと言うと、私に顔を近づけてきた。息を感じるほどの近くで。 「…俺、大学時代から春乃さんのことを知っているんです。ゼミの研究について話し合うために長谷のそば屋さんによく行っていましたから。そこであなたはいつも笑顔で働いていて、一段落すると、犬を連れて散歩に出掛たり、スポーツジムに行ったりしているのを、よく見かけていました。本当に可愛いくて魅力的な笑顔でいつもいるものだから、いつしか惹かれていました。後半は、あなたを見に行っているといったほうが良かった。夏乃にあなたのことを根掘り葉掘り訊いて、どこで勤めているかまで。それで会社を受けたんです。理由はあなたがいるから。内定を貰った後、研修場所は選べましたから、広報部にしたんです。、営業と密着している場所だからと理由を付けてね」 榊君は低くて甘い声で囁きながら、少し照れたような笑みを私に向けている。 ずっと私を見てくれているなんて、そんなこと想いも寄らなかった。 夏乃がゼミ仲間と一緒に、毎週日曜日に、実家のそば屋の一角で色々と話し合ったり、レポートをまとめているのは知っていたけれども、まさかそこに榊君がいて、しかもいつも私を見てくれているなんて思っても見なかった。 「…そうだったんだ…」 「いつもドキドキしながら春乃さんを見ていました。お茶を持って来て貰う度に、いつも笑顔でいてくれて、だから俺は精一杯、笑顔で返していました…」 榊君はそう言うと、突然私を強く抱きすくめてきた。 告白されるだけでも息が出来なくなるぐらいに緊張しているのに、更に身体が軋むぐらいに抱きしめられる。 「----春乃さん、あなたが好きだ、好きだ、好きだ、好きだ…!!」 榊君は、いつもはクールで落ち着いているのに、今日ばかりは情熱的に私を抱きすくめ、その想いが溢れ出すような声で愛を語ってくれる。 こんなにストレートに切迫した感情で告白して貰った覚えは、今までなかった。 いつもクールで冷たい女を装い、その幻影にしがみついて生きてきたのだ。それが今、榊君によって簡単に取り払われてしまう。 ただの女の子になる。 嬉しくてしょうがなくて、私もまた感情が解放されるのを感じた。 今までは傷つくことを恐れて、何も出来なかった。誰の心も表面上は受け入れて、深いところで受け入れることは出来なかった。 だが、今ようやく、30を過ぎた今になってこうして受け入れることが出来る。 体裁なんていらない。傷ついても構わない。 ただ榊君を愛したい。榊君の愛が欲しい。 私は初めて、自分から欲して榊君を受け入れ、しっかりと抱きしめた。 「…春乃さん…!」 「…私も大好きだよ…。榊君…」 ただ掠れる声で言うと、榊君は本当に今にも泣きそうなのに、とても温かな笑みを私だけにくれる。何て幸せなことなのだろうかと、思わずにはいられなかった。 榊君は男らしくしっかりと抱きしめてくれた後、唇をゆっくりと近づけてきた。 しまった。忘れていたと、私は思った。 キスの仕方なんて解らない。 今更ながらおろおろする私を気付いたのか、榊君はゆっくりとリードするように唇を重ねてくる。 「力抜いて…」 「う、うん…」 目を開いたばかりの子犬のような瞳で榊君を見つめると、大丈夫とばかりに頷いてくれる。 私たちは唇が触れるだけの小さなキスをした。 だけどしれだけでは物足りなくて、榊君がリードの上で、今度はより角度が深いキスをしてくる。 息をすることすらもどかしいほどに熱くて燃え上がるようなキスに、私はこのまま溶けても良いとすら思った。 唇を離した後、榊君は緩やかに私を抱きしめると、もう一度「好きだ…」と掠れた声で囁いてくれた。 |