9
「拓海くん…」 「お邪魔だったかな? 久し振りにおじさんのそばを食べに来たんだ」 拓海は夕陽によく似合う静かな笑みを浮かべると、ゆっくりと私たちに近付いて来た。 「喜ぶよ、お父ちゃん」 お父ちゃんは、私たちが恋人寸前だったことなど知らない。あくまで私の仲間のひとりだと思っている。私からも特に詳しく説明する必要もなかったから、今までそうしなかった。 「相変わらず、五山せいろは美味いんだろうな」 「そうだよ。それだけは自慢」 私は引きつった笑顔を浮かべながら拓海の様子を伺う。 最近、榊君と拓海に挟まれることが本当に多い。男運なんてからっきしなかった私には奇跡といっても良かった。 「春乃さん、俺も、夕飯代わりに五山せいろを食べて帰ります」 「お蕎麦ばっかだとお腹が空くよ」 「いいんです。美味い蕎麦はいくらでも入りますから」 まるで拓海に対抗でもするかのように、榊君は爽やかな力強さを込めて言う。 「じゃあおふたりともどうぞ。私はポチを裏庭に連れていくから。 ふたりから並々ならない対抗意識のオーラを感じて、私は窒息しそうになり、逃げ出す格好になってしまった。 ポチを犬小屋に繋ぎ、手を洗って店に入った瞬間、携帯電話が鳴り響いた。 着信相手は多岐川さんだ。 多岐川さんは仕事以外に電話をかけてくることなんてないから、私は緊張した。何かあったに違いないのだ。 「はい長谷川です」 「多岐川だ」 「多岐川さん、どうされましたか?」 「長谷川、明後日のイベントに使うパンフレットが印刷会社に発注されていなかった」 一瞬、私は心臓が止まる思いがした。ここまでやってきて、最後の最後で詰めが甘いなんて最悪だ。 「申し訳ありません。完全に私のミスです」 「お前さんのミスではないが、チェックを怠ったのはミスだな。とにかく、明日、大急ぎで刷りあげてくれる印刷屋を見つけたから、そこに原稿のロムを今夜中に入れてくれ。俺には、お前のデータが触れないから、直ぐに会社に来てくれないか?」 携帯電話の向こうから聞こえる多岐川さんの声を、私は唇を噛みながら聞き続ける。 ほんの一瞬だけ、恋なんてものに意識を奪われていたから、こうなってしまったのかもしれない。全くの自業自得だ。 「直ぐに社に向かいます」 「ああ。頼んだ、待っている」 長谷川さんの電話はそこで切れて、私は大きな溜め息を吐きながら、携帯電話を切った。 ショック過ぎて、頭のなかに酸素が足りたくなる。 「どうかされましたか?」 榊君が甘く切ない表情で、私を覗き込んで来る。 お願い。 どうかそんな顔をしないで欲しい。 私を包み込んで甘やかせるような表情をされてしまうと、本当は気の弱い本音の部分から涙が溢れてしまうから。 「ちょっと仕事でトラブルがあったの。直ぐに社に向かわないと」 私は必死になって自分の弱い部分を吹き飛ばして、冷静沈着な女を演じて見せた。 「だったら俺も行きます。俺は車だから、あなたを送れますから」 榊君は純粋に申し出てくれるのだろう。 このまま甘えてしまったら、私の弱い部分の総てを、榊君に凭れさせてしまう。そんなことは到底出来なかった。 私はためらった。 だが私のためらいなど焼尽くすような視線を、榊君は見せつけて来る。 逡巡なんてしてはいられないのだ。 今は仕事が優先だ。 榊君と一緒に向かうのが一番早い。 「解った、会社まで連れていって。ダッシュで着替えてくるから」 「はい、待っています」 私は横にいる拓海をちらりと見た。 「ごめんなさい、社に戻らないといけなくなった」 「ああ」 拓海はただ頷くと、ひとりの客として店に入っていった。 私は直ぐに自室に戻り、ユニフォームである着物を脱ぎ捨て、ショート丈のジーンズと白のチュニックというラフなスタイルに着替えた。 残念ながらこの服しかないのだからしょうがない。 私が店の前にくると、既に榊君の愛車であろう、シルバーの軽自動車が停まっていた。まるでカボチャの馬車のようで可愛かった。 「狭いですが乗って下さい」 「うん、有り難う」 私は遠慮なく車に乗り込むと、手早くシートベルトをした。 何だか心臓が奇妙なぐらいに高まってくる。胸が切なく圧迫されて苦しくなるのに、どうしてこんなに気持ち良いんだろうか。 鼻腔をくすぐる爽やかな香り。榊君のオードトワレは、抹茶のような香りがして、こころが華やいだ気分になる。 榊君本来の香りとフレグランスが混じりあって、私のこころをとろとろにさせた。 香りを感じてしまうほどに榊君と密着したことはなくて、私はおかしな熱病にでも冒された気分になった。 指先が震える。 スウィートな感覚にこのまま溺れられたら良いのに、私のこころを覆う石より硬い殻がそうさせてはくれなかった。 落ち着かない。話をして気分を和らげようにも出来ずに、私は視線を右往左往させた。 「都内からこっちに来るドライブって良いものですね」 榊君がしみじみと呟いた。 「そうね。こっちに帰ってくる時が好きだな。ベイブリッジ通って来る頃には、気持ちの角が取れてくるんだよね。時間がゆっくり流れ始めて、リズムが優しく緩やかになるの」 緩やかに流れる癒しの夕暮れを眺めながら、私は本の少しだけ素直になる。 どうしてだろうか。故郷の話をするといつも素直になれるのは。 「故郷の話をしている春乃さんは、凄く綺麗です」 端正な声でごく自然に言われると、私の躰の奥にある最も少女で最も女の部分が火照ってきた。落ち着けなくて、私はもじもじと指を絡めてしまう。 恥ずかしくて、受け流すことが出来ないのは、きっと戦闘服であるスーツを着ていないからに違いなかった。 車は鶴岡八幡宮の横へ抜けて、横浜方面へハンドルが切られる。 この辺りになると私のセンチメンタルな気持ちが影を潜めて、仕事モードへと切り替わった。 背筋を伸ばして座り直すと、榊君くんのかすかな笑い声が聞こえる。 「サムライみたいですね。長谷川さんは」 仕事モードに入った私に気を遣ってか、榊君は名字で呼んでくれる。それが嬉しくもあり、どこか切なくもあった。 車はオフィス街の幹線道路をスムーズに泳ぎ切り、会社ビル横の駐車場に入る。 榊君がゆっくりとブレーキを踏む音を聞きながら、甘酸っぱい時間が終わりを告げたことを識った。 私はシートベルトを外すと、背筋を伸ばして車から出る。まるで魔法が解けたシンデレラのような気分だった。 いつも携帯しているIDカードを首からかけると、私は守衛室へと向かう。 「俺も手伝います」 「有り難う」 私たちはふたり並んで守衛室を抜け、オフィスへと向かう。殆どのオフィスは電気が消えていたが、広報部と営業部の灯りだけがついていた。 フロアに来ると、ラフでセンスの良いシャツにジーンズを合わせた多岐川さんが待ちかまえていた。 「そろそろ来る頃だと思っていた」 私を怒ることもなく、ただ怜悧に見つめてくるだけだ。多岐川さんらしい。怒るよりも冷静に対処した方が仕事が捗ることを、この人は良く識っているのだ。だからむやみやたらと部下や後輩を怒らない。まず、効率を第一に考えるひとだ。 「すみません。直ぐにデータを修正して、ROMに落として印刷屋さんに持っていきます」 「ああ。頼んだ。俺は営業で仕事をしているから、何かあったら声を掛けてくれ」 「有り難うございます」 多岐川さんは相変わらず大人の男としての存在感や色気がそこはかとなく漂っている。いつも真っ直ぐ王道を行く姿は、今の男たちが喪ってしまったサムライ魂が宿っているように見える。憧れたことはあるが、恋をするなんておそれおおいと思っていた。 今も私の目標、憧れだ。 広い背中を向けて自分の部署に戻る多岐川さんを見つめながら、私もいつかああいうふうな器の人間になれれば良いと思わずにはいられなかった。 「…春乃さん、多岐川さんのこと…好きなんですか?」 榊君にしては刺々しい口調に、私は思わずその顔を見た。顔立ちもどこか強張ってる。 「私の憧れの人。ああいう上司に、先輩になれればって思ってるだけだよ」 「----俺もああ言う男になれれあと思っています」 いつもよりも力強い榊君の言葉と瞳に、私はトレーナーとしても個人としても嬉しく思う。 「----なれるよ、榊君なら」 私はこころからそう思える。榊君なら、ひょっとすると多岐川さん以上の男になるかも知れない。 「有り難うございます。春乃さんに仰って頂けると、俺は凄く嬉しいです」 榊君は私を強い綺麗な眼差しで見つめてくる。そこには並々ならぬ男としての決意が滲んでいて、私はこのまま溺れてしまいそうになった。 「…誰だってそう思うよ」 「春乃さんに言って貰えたから意味があるんです」 榊君はキッパリと言い切ると、私が逃げられないところへと追いつめてくる。 ねえ、お願い。 追いつめないで。 逃げられなくなってしまうから。 逃げたくなくなってしまうから。 「し、仕事に入ろうか」 「はい」 私は迫り来る熱くて切ない想いから逃れるために、自席へと急いだ。 商品紹介パンフレットのデータにアクセスをして、私は最終チェックをした。 20代から30代にかけてのキャリアウーマンがじっくりと見て、欲しくなるような商品紹介を作らなければならない。 私は細かいところまでチェックをし、足りない表現のところは書き換えたり、追加したりした。 会社には6時台に入ったのに、データが出来る頃には夜九時を回っていた。 「…出来た…」 疲れというより達成感と安堵の溜め息が唇から漏れ、私は乱れた髪をかき上げた。 「お疲れ様でした。俺は横にいて何も出来なかったですけれど」 「いいんだよ。その代わり、印刷会社までの運転手、買って出てくれるかな?」 「はい。喜んで」 印刷会社の工場は都内になるので有り難い。 私たちは小走りで駐車場へと向かったが、営業部は相変わらず電気がついていて多岐川さんが仕事をしているのが見えた。 その横に夏乃が仕事をしているのが見え、私は驚く。休日と仕事をあんなにも分けて考えている夏乃が、休日のこんな遅くまで仕事をしているのが、俄に信じられなかった。 榊君のカボチャの馬車のような車に乗り、印刷会社へと急ぐ。 夜景を見る余裕なんて無かったけれど、そんなに悪い気分ではなかった。 印刷会社のスタッフの方に頭を下げまくってROMを入稿したあと、流石に私の脚から力が抜ける。 何だかホッとして躰がくにゃくにゃになりそうだった。 「有り難う、今日は。ここからは駅が近いから自分で帰れるから」 「いいえ、送ります。俺も横浜方面だし、同じだから」 「有り難う」 榊君の車のなかで変な反応をしないかどうか気にしながら、私は車に乗り込んだ。 最初に乗ってきたときのように妙に落ち着かない。 仕事モードから解放されたからだろう。 私は落ち着かなくて、髪をかき上げたり、夜景を見るふりをしたりした。 「もう明後日がイベントなんですね」 「うん、早いね」 「そして、俺の研修が終わる」 私は心臓がびくりと震えるのを感じた。 そう。榊君の研修は間もなく終わり、彼は配属先が来週には決まるのだ。それが私の下だとは限らないわけで。 妙な寂しさにこころがむしばまれて、何だか泣きそうになり、私は黙り込んでしまった。 暫くして、車は横浜に入ってきた。 「長谷川さんの家は菊名ですよね」 「そう」 「そろそろ菊名ですから、ナビをしてください」 「うん」 ナビをしている間は、榊君のことを意識せずにすんだ。 甘い拷問の時間が終わりを告げる頃、日付が変わろうとしていた。 「有り難う、榊君」 私が車を降りると、榊君も車を降りる。 「いいよ、乗ったままで…」 私が笑って言った瞬間、榊君の逞しい腕が、私を背中から包み込んできた。 「----好きです。春乃さん…」 頭が一気に真っ白になった----- |