アスール・ルーノ


 ようやく部屋に戻ると、ルーナの全身から力が抜けた。

 まだ、吐きそうになるぐらいに、心臓が激しいリズムを刻んでいる。気持ちが悪くなる。

 ルーナの動揺を感じ取ってか、ソーレが女官に、落ち着くための紅茶を出すように指示をしてくれた。紅茶と一緒に、甘いお菓子とフルーツがやってきて、それらを口にして、ルーナは少しだけ落ち着きを取り戻した。

「やばい橋を渡るのに手を貸して貰って申し訳ないな」

 ソーレは、心からの謝罪の表情を浮かべながら、頭を下げた。だが、その瞳を見れば、ソーレが後悔はしていないのは明らかだ。

「こんなにも、狙われるなんてどうしてですか? 今回のことが影響しているのですか?」

「そうだ。エスメラルダ様のことが原因だ」

 ソーレはキッパリと言うと、ルーナを見た。
 アーキルは既にその理由を知っているようで、かなり深刻な表情をしていた。

「あの、どういうことか、きちんと説明して貰えないでしょうか? でないと、私も不安でしょうがありません。何も解らないのに妨害があると、これ以上続けられるか、自信はありません……。途中で投げ出さないためにも、話して下さい。理由が解れば、対処する方法もあるかもしれません」

 これ以上、妨害活動があれば、ルーナは、ヒーラーとしてやっていけなくなる。
 それに、エスメラルダを癒して元気にする自信も、現時点ではないのだ。それ故に、ルーナは理由を説明してほしかった。それがなければ、やはり首はしっかり縦には振ることが出来ないと、ルーナは思った。

「当然だな。解った。お前にはきちんと話をしておく」

 ソーレは頷くと、アーキルに目配せをする。アーキルは思い詰めたような栗表情のまま渋々でではあるが、頷いた。

「エスメラルダ様は、皇帝陛下の妹にあたる方だ。皇帝陛下はご結婚されておらず、故にお子もいない。皇室の直系はお二人だけなのだ。次に皇帝になるのは、エスメラルダ様か、そのお子様になるのではないかという推測が飛んでいる。エスメラルダ様ではなくなる場合は、直系ではなく、皇族でもかなり薄い家の者が皇帝になることになる。直系ではない家は沢山あるからな。ゆえに権力争いも激しい」

 そんなことになっているとは、ルーナは思ってもみなかった。
 月の民は独自の文化を築いているせいか、皇帝陛下以外の皇族やそれに伴う政治状況など知らないことが多いのだ。

「エスメラルダ様は元々活発な方であったが、病弱でもあった。幼いころから、月の民の最高能力ヒーラーが常に傍にいるほどだった。それ故に、いつもその病状が危惧され続けた」

 月の民の最高能力ヒーラー。ルーナには、おばばしか思いつかない。

「おばばさまですか?」

「----いいや」

 ソーレは一瞬、ルーナから視線を逸らし、暗い影を滲ませる。重々しい雰囲気を一瞬、滲ませた。

「ルーナ、俺はエスメラルダ様の専属医師だった」

 アーキルは苦しげに呟く。アーキルにとっては、苦い過去なのだということは、その表情でうかがい知れた。

「俺は第一騎士団の軍医だったが、ある時、皇室に呼ばれて、エスメラルダ様の専属医師になるように辞令を受けた。最初は俺と同じ年の姫様のおもりをするのかと、すごく嫌だったんだけれどな。だが、エスメラルダ様は、明るくて、病弱とは思えないほどに元気で、しかも、生命力に満ち溢れていた」

 アーキルは、綺麗な思い出を手繰るようにノスタルジーな眼差しで宙を見る。きっと、とても素敵な思い出なのだろう。そこには、愛以外の何も感じられなかった。

「元気なころのエスメラルダ様はきっと素敵な方だったんでしょう? アーキル先生の話を聞くだけで解ります」

「そうだな。とても魅力的な……女。お姫様だった」

 アーキルは自嘲気味にフッと笑った後、黙り込んでしまう。瞳に涙の幕のようなものが輝き、ルーナは共鳴して切なくなった。

「そこからは、俺が話そう」

 黙り込んでしまったアーキルに変わって、ソーレが口を開く。

「エスメラルダ様のヒーラーとしては、お前は知っていなければならないことだからな」

「はい、お願いします」

「エスメラルダ様とアーキルは、やがてお互いに慕い合うようになった。だが、片や皇女で、片や医師だ。ふたりの恋は許されるものではない。だが、エスメラルダ様は、たとえ困難であったとしても、アーキルとの恋を貫こうとした。そして、それを皇帝陛下も容認していた」

「え?」

 意外だとルーナは思った。
 普通ならば、そのような状況だと、兄として皇帝として反対するだろう。だが、容認していたなんて、俄かに信じられなかった。それと同時に、皇帝のどこか優しい気質も感じられる。きっと、人の気持ちに添える人なのだろう。そう思うと、ルーナは嬉しなった。国の長がそのようなひとで良かったと、ルーナは胸が温かくなる。

「陛下は容認されていたんだ。だが、それらを疎ましく思う輩もいた。エスメラルダ様を利用して皇帝の地位を狙っている輩だ。奴らは、アーキルを暗殺しようと画策した」

「……なんてことを!」

 ルーナは思わず息を呑む。非公式であると言え、皇帝も容認していた恋だというのに。だが、どこにも、地位のために様々なことを画策する者はいるとルーナは思った。

「元々エスメラルダ様の身体は弱く、おばば様がヒーラーとして何度も来なければならないほど、衰弱が始まっていた。おばば様もアーキルも、時間の問題かもしれないという結論に達していた時だった。アーキルの存在を疎ましく思った者が、アーキルを襲った」

 アーキルは眼を強く閉じる。瞼と睫毛を震えるところを見ると、悪夢以上の経験であるということは、ルーナはすぐに理解することが出来た。

「だが、実際に、毒刃にかかったのはエスメラルダ様だった。アーキルを庇い、心臓を深く刺された」

「そんな……」

 訊いているだけで、ルーナは苦しく、そして哀しくなり、瞳からぽろぽろと涙を零す。こんな苦しくて切ない恋が他になるのだろうか。哀しすぎる。アーキルの気持ちを考えると、ルーナはいても立ってもいられなくなる。涙が溢れすぎてしまい、ルーナは、小さな手のひらで、小ぶりの顔を覆った。

「アーキルによって緊急手術が行われ、それにおばば様も立ち会った。しかし結果は、上手くいかなかった。この国一の医師とヒーラーが、エスメラルダ様は死んだと判断した。アーキルはそのために専属医師を辞めた。後はお前も知るところだ。アーキルが死んだと判断したにもかかわらず、葬儀の準備の途中に、エスメラルダ様は目を覚まされた。死んだと宣言されたにもかかわらず、エスメラルダ様は、生きていた。だが、もう以前のエスメラルダ様とは様子が違っていた。記憶が定かではなくなり、闊達ではなくなった。逢うのは、女官のハルマと家庭教師だったシュタイン、そして表面上の婚約者であるサクル様のみだ。それ以外の人間は全く受け入れない。姉もダメだった」

 ソーレは面妖とばかりに眉をひそめる。その表情は、かなり重い。

「そうか。お前の姉さんですらダメだったのか」

 アーキルはようやく重々しく口を開く。

「ああ」

「ヴィーナスさんも、エスメラルダ様とお知合いなんですか?」

「幼馴染と言うか。子供の頃、姉さんはエスメラルダ様の遊び相手をしていたんだよ」

「そうなんですか」

「お前、あのヴィーナスに逢ったのか?」

 先ほどまで厳しい顔をしていたアーキナルがぎょっとした表情になった。

「はい、今日。カッコ良い方ですね」

「カッコ良い……ねえ」

 アーキルは忌々しいものでも話すかのように言うと、大きく溜息を吐いた。こんなにもあからさまに苦手そうな表情のアーキルを見るのは、おばばの話をする以来だった。

「とにかく、まったく反応を示さないから、陛下が、国中の医師とヒーラーから、特に優れているものを呼び寄せて、エスメラルダ様を診察させた。だが、結果は、お前たちも知っての通りだ。そこでお前たちに白羽の矢が立ったという経緯がある」

 ルーナはようやくバックボーンを理解し、しっかりと頷いた。

「解りました。だけどどうして、シュタイン博士は寄せつけるんでしょうか? ハルマさんやサクル様はなんとなく、昔から一緒だからかなあとも思うんですが、それにしても良く解らないです」

 ルーナは考え込む。記憶のない人物でも、自分の想いで反応する人物を寄せつけるとしたら、シュタインと恋仲だったことになる、だが、今の話を聞くとそうは思えない。ルーナは益々訳が解らなくなってしまった。

「あの、シュタイン先生とエスメラルダ様は恋仲ではなかったですよね?」

「ああ。少なくとも、シュタインはエスメラルダ様のことが好きだったが、エスメラルダ様自身は、尊敬する先生であり、親愛なる友人ぐらいにしか思ってはいなかった。これは、あの姉さんの証言だから間違いはない」

「なら、どうしてシュタイン博士とサルマさんにだけにお逢いになるのでしょうか? 何か理由が思うんです。動物だったら、刷り込みとかが考えられますが」

「刷り込み?」
 
 ソーレは眉を寄せながら、怪訝そうにルーナを見た。

「はい。よく、ひよことかが、最初に見た動く物を親だと思うというでしょう? それと同じかもしれないです。最初に見たのが、シュタイン博士とサルマさんだとか。だけどそれだと可笑しいですよね? 生まれてすぐシュタイン博士を見るはずなんてないのに……」

 自分で言って、ルーナは流石に違うと溜息を吐いた。

「それは解らないがな。ただ、今回の一件は、シュタインとハルマ、そしてサクル様が絡んでいるのは間違いないと俺は思っている。三人にしか逢わないというところが引っ掛かる」

 ソーレはキッパリと言い切った後、アーキルに視線を投げた。

「俺もそう思い、何か解ることがないかと、アルベルト周辺を洗うため、俺が知る限りのアルベルトがひいきにしている問屋をシラミ潰しであたった。その途中でお前たちに出くわした」

「刺客はいつからお前にくっついていた?」

「まあ、刺客は、お前たちが来る前から何となく気付いていたが、泳がしておいた。やはり、あの三人が絡んでいるのは間違いないとは思うがな。少なくとも、そいつらが、俺たちを妨害しているようには思えるが。三人を繋ぐ何かがあるんだろうがな」

 アーキルは冷静すぎる表情を浮かべる。だが、その何かは、まだ特定できていないようだった。

「その何かを、探るのが俺の仕事だからな。アーキル、お前はシュタイン周辺を洗い出してくれ。そのほか思いつく限りのことは、俺が調べる」

 ソーレは頷くと、椅子から立ち上がる。

「まあ、お前の場合、ヴィーナスがいるからな」

 アーキルはからかうように言う。

「それは言うな。姉さんの力を借りるのは不本意だからな」

 ヴィーナスはどのような人となりなのだろうか。少なくとも、弟であるソーレと、その友人であるアーキルは、かなり怖がっている。ふたりとも立派な騎士たちなのに、そのふたりを掌で転がせるヴィーナスは凄いと、ルーナは思わずにはいられない。きっとふたり以上の技量を持っているのだろう。

「ヴィーナスさんってすごいんですね。尊敬します」

「「尊敬しなくて良いから!」」

 ソーレとアーキルの声がまるでコーラスのように重なる、ルーナは思わず笑ってしまう。ふたりともヴィーナスには同じ印象を持っているようだった。

「姉さんみたいなのは、この世にひとりで沢山だ……」

「俺もそう思う……」

 ソーレとアーキルは共に頭を抱えて、深い溜め息を吐いた。

「おふたりとも、ヴィーナスさんに弱みでも握られているんですか?」

「お前も長く付き合ったらわかるさ。ヴィーナスと」

 アーキルは深々と溜息を吐きながら、ルーナの肩を脱力しながらポンと叩いた。

「姉さんのことは置いておいて、話を元に戻さないとな」

 ルーナたちは表情を引き締める。

「何か背後の権力に操られているというよりは、アルベルトの場合は、利害が一致しただけなのかもしれないと、俺は思っている。アルベルトを利用しているのが正しいのかもしれないな。権力争いが絡んでいるのは、間違いないだろうからな」

 ソーレは達観するように分析をする。

「そうだな。あいつは、エスメラルダ様のことが好きだが、エスメラルダ様が幸せであればそれで良いような男だからな。それ以外は無頓着」

「そうなんですか。純粋な方なんですね」

「ある意味はな。だが、屈折している」

 ソーレは表情を歪めながら、深刻さと苦々しさがブレンドされたような声で呟いた。

「そうですね。確かに純粋過ぎて歪んでいる愛です。苦しい愛だと思います」

 だが、なんて崇高な愛なのだろうかと思う。見返りなどいらないと純粋に思う愛だ。
考えるだけで、ルーナは泣きそうになってしまった。だが同時に、こんなにも苦しい愛は他にはないのだろうかとも、思う。

「おい、アーキル、お前は何を調べていたんだ?」

「俺は、アルベルトのルートで何か分かるのかもしれないと思って、からくりのパーツ屋を調べていたところで、お前たちに逢った」

「からくりパーツの何が関係あるんだよ」

 ソーレは怪訝そうに美しい眉を寄せながら呟く。

「ああ。聴診をした時、エスメラルダの心臓の音と動きが、からくりで作ったものに似ていると、なんとなく思ってな……」

 アーキルは恐いぐらいの非難の表情を浮かべる。眼光は、医師として許されるものではないとばかりに、怒りの炎ではぜていた。

「そんなことが出来るんですか?」

「アルベルトの専門は医療系のからくりだ。戦争や事故で不自由になった義手や義足作りが得意で、心臓の動きを助けるからくりを、俺と二人で開発しようとしていた。だが、あくまで、動きを助けるものだ。からくり心臓ではない」

 アーキルは苦し気に目を閉じた。

「いつか、からくり心臓が出来て、胸の病に苦しむひとが、ひとりでも減ることになれば良いと、俺たちは考えていた。長くは持たないかもしれないが、それでもそのまま病を放っておくよりも長く生きていけるようなものが出来ればと、二人で考えていた。あいつがからくり心臓を、俺が生きたまま手術をする外科医術を開発しようと、約束をしていた。だから、あいつがからくり心臓を作って埋め込んでいるのかもしれないと思った

 ルーナは、アーキルの表情と声が苦悩に満ちているのを感じた。だが、アーキルの言葉を聞きながら、今も昔も全く変わりがないことを痛切に感じる。
 アーキルは命を救うためなら、様々なことをして手を尽くす医者だ。そこが、ルーナが尊敬してやまない部分だった。

「エスメラルダ様の心臓は弱かったからな。お前たちが何とかしようとしているのは、知っていた。お前たちが全身全霊を賭けて、開発しようとしているのは、部外者な俺や姉さんは知っていた。エスメラルダ様に、そしてエスメラルダ様と同じ病気で苦しむ人たちのために、お前たちが研究していたのを、俺は傍にいる人間として誇らしく思っていた」

 ソーレはノスタルジーな笑みを浮かべながら、アーキルを見る。

「ソーレ、もう昔のことだ。昔のな」

 アーキルはどこかやぶれかぶれになっているのではないかと思ってしまうほどに、重い面持ちで呟いた。

「アーキル先生、からくりの心臓を、医師でないひとが移植するとしたら、死体に置くことしか出来ないんじゃないでしょうか。だけど、死体にそこまで出来るのは、なかなかないかと。ましてや医術の心がなければ」

 ルーナは腕を組んで考え込む。

「だけど、私は、確かにエスメラルダ様に生体反応を感じていたので、そこが不思議でならないんです。からくりの心臓が入っているのなら、そもそも、生体反応なんて、感じられないかと思うのですが、今回は感じたので、そこが不思議で……」

 ルーナは益々解らなくなり、ついため息を吐いてしまった。

「そうなんだよな。俺もそこがすごく気になった」

 アーキルも医師として面妖とばかりに眉根を寄せる。

「調べれば、調べるほど訳が解らなくなる。ちなみに、アルベルトは、からくり心臓のパーツになる部品を多数購入していた形跡があるところまでは解った」

 アーキルはソーレに淡々とした眼差しを向ける。

「そうか。だが、あいつは医師じゃないから、手術は別の者がやったとかは考えられないか?」

「心臓外科の手術はそうそう出来るものではない。かなりの医師であってもな。その線であたるのもありかもしれないが」

 アーキルは思わず口ごもる。

「期待できない可能性が高いと、言いたいんだな?」

「そうだ」

「確かに、お前以上の外科手術が出来る者は、帝国探してもいないかもしれないな」

「だから可能性として、死体にからくり心臓を入れたことを考えた。アルベルトは俺の手術に立ち会ったことがあるからな。死体相手ならば、出来るかもしれない」

「だが、生体反応感じた。益々訳が解らなくなるな……」

「ああ、その通りだ」

 アーキルとソーレの会話に熱心に耳を傾けながら、ルーナも益々訳が解らなくなってきた。
 三人はお互いに溜息を吐くと、ぐったりと天井を見上げた。これでは、エスメラルダが根本的にどこを治療しなければならないのかが、見えなくなってしまう。それは三人には痛かった。

「アーキル、お前は、引き続き、からくりルートで調べてくれ。俺は、エスメラルダ様を利用しようとするやつらのルートから追及してゆく」

「解った」

「あの、私はどうすればよいですか?」

 ルーナも今回のことは是非協力をしたいと思う。エスメラルダのことを解決してからでないと、帰ることが出来ないと思ったからだ。

「お前は、とにかく、癒してやってくれ。それが一番の仕事だ」

 ソーレもアーキルも同じことを言う。

 ルーナは、若干のもの足りなさを感じながらも、頷くしかなかった。

 まずは自分でやらなければならないことを、前だけを見てしっかりやろうと、思わずにはいられなかった。

 ルーナはひとりになり、久々にカードに向き合う。

 悩みが起こると、いつもおばば直伝のカードで問うのだ。おばばほど精度は良くないが、ひとつの指針にはなる。

 ルーナは背筋を正し、深く呼吸をすると、カードに問うた。

 エスメラルダ様の治療をどのようにすればよいですか?

 ルーナはカードを引くなり、息を呑む。
 引いたのは、死神のカード。
 何度引いても、同じ死神のカードが出る。

 ルーナはカードを片付けると、唇をかみしめ、溜息を吐く。

 カードが嘘を吐いていないような、気がした。

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