「四季恋船」
この恋の総て〜春乃の場合〜


 新卒社員だった頃、友人たちとのランチで戯れに呟いた。
「30までに結婚しなかったら、キャリアウーマンよろしく、マンションでも買うよ。投資するの自分に」
 その言葉が現実になり、私は通勤に便利な、ひとりでは広すぎる3LDKのマンションを手に入れた。20年のローンと一緒に。
 大学を出て今年の春で丁度10年。ひたすら仕事に情熱を燃やしていたから、海外旅行やエステなどにお金を使う暇もなかった。それで手に入れたものは、広報部PRチームのナンバー3『チーフ』という肩書きと、マンション。
 -----そして、彼氏いない歴32年の更新記録だけ。
 本当に欲しいものは何だろうか、迷子になってしまった私は、桜の開花宣言と同時に、32歳になった。
 32歳は厄年だけれど、不愉快でもかといって愉快でもない。本当に、四兄弟の長女というのは、こんなものかもしれない。
 私には下に3人の妹弟がいる。9歳年下の夏乃、11違う大学生の秋夜、そしていくつ下か忘れてしまいそうな高校3年生の冬乃私たち兄弟は全員生まれた月に合わせ季節の名前を持っている。ちなみに私は春生まれだから春乃だ。長谷川四兄弟の生まれ順は分かり易いと、ご近所にも言われている。
 私だけがひょっこりと出ていて、あとはぎゅっと年が詰まっているのが、私たち兄弟。私は早生まれだから、結局、それプラス1年は離れているので、彼らとのジェネレーションギャップは甚だしかった。
 妹夏乃が、この春同じ会社に入ってきた。妹が私を反面教師にするのは、確実である。その証に、夏乃はエンジニアとして会社に入る。きっと彼女のことだ。欲しいものを総て手に入れるだろう。私とは違って。
 今日は実家近くまで足を伸ばし、海を見に来ていた。
 私は何かあると、こうして海を見ずにはいられなくなる。生まれたときから見守ってくれている海を見ていると、不思議と心が落ち着いてくるのだ。
 春の海は、優しく受け入れてくれるから好きだ。
 傍らには、弟の秋夜が子供の頃に拾ってきた我が家のアイドル犬ポチがいる。ちなみにわたしは、マンションを買って独立したときに、会社の近くの公園で、キジトラの雄猫を拾った。その子はただキャットと呼んでいる。雨に日に拾ったから、『ティファニーで朝食を』を準えてみたかった。私はコールガールにはなれそうにもないけれど。
 私は、年老いたポチのざらついた頭を撫でてやる。無邪気な動物の温もりというのは、心を癒やしてくれるものだ。
 これできっと、明日から頑張れる。
 海を見たから、お父ちゃん特製の二八蕎麦を食べたら、それだけでどんな激務も頑張れるような気がする。
 私は思いきり伸びをすると、沢山のエナジーを躰に蓄えた。
 大丈夫、私はまだ大丈夫。
 そう自分に言い聞かせて。
 私はまた、荒波をひとり漕ぎ出していく。
 慰めてくれる男もなく、頼る男もいない。私の掌からこぼれ落ちてなくなったものばかり。
 本当は恋をいらなくなった訳じゃない。女をサボっているわけじゃない。
 ただ傷つくのが怖かっただけ。
 それは今でも変わらない?
 ねえ、自分の世界に閉じこもっている私に手を差し伸べてくれる王子様は、何時現れるの?


 新製品のPR会議を終えて、頭がぐちゃぐちゃになりながら社員食堂に向かった。外でランチをするよりは、社員食堂の素朴な食事を食べるのも好きだ。仕事柄、外でランチをすることもたびたびあるが、栄養のバランスが考えられた給食のような日替わりAランチが懐かしい。
 ダイエットなんて考えられないほどに体力がいるせいか、横のおじさん並みに、私はもりもりと食べる。今日は大好きな鯖のみそ煮に、ひじきの煮物、キュウリとわかめの酢の物に、納豆、大根とゴボウのみそ汁に、玄米ご飯。理想的な献立。
 もりもりとご飯を食べていると、視界がスッと影になる。
「いいか、ここ」
 懐かしくも魅力的な声に、私は顔を上げた。そこにいたのは開発部マネージャー多岐川俊太郎さん。私よりも5つ年上の、新人の頃にトレーナーをしていただいた先輩だ。今や、開発部の出世頭として、相変わらずスマートに働いていると聞く。
 多岐川さんは30代半ば過ぎの男として脂が乗り始めとても魅力的だ。護ることが出来る包容力と、尖ったナイフのような仕事への厳しさを持ち合わせている。
 この人の懐にいったん入り込み、とことんまで着いていけば、必ず明るい未来が開けてくる。私は10年前、このひとに仕事のイロハを教わり、それを実感した。
 ただ厳しいだけではなく、本当に相手のことを思っていってくれる。いつも冷静で、自分の主観ではなく、一歩引いたところで見る姿勢が、尊敬を生む。
 多岐川さんの厳しさの意味が解らないようでは、大成しないだろう。
 一目見れば、多岐川さんは爽やかな夏の風のような男前。本当に男前という表現がよく似合う。優しさが滲んだ大きく切れがある瞳を見れば、誰もが恋焦がれるだろう。
 私も、新人の頃は憧れたものだ。ただし、その時点で多岐川さんは10歳年上の素敵な女性と結婚していたので、恋愛対象にはならなかったけれど。
 齢を重ねた今もそれは変わらない。一見すれば、仕事の鬼には見えないし、どこか頼れる兄貴のような雰囲気もある。きっと最もスーツが似合って、最も似合わないのは、多岐川さんだと思う。
 私は多岐川さんを巫山戯て、陰では”タッキー”と呼んでみたりもする。それは先輩への敬愛も込めている。
「長谷川、向かいを良いか?」
「どうぞ。多岐川さんもやっぱり、Aランチですか」
 多岐川さんは頷きながら苦笑いして席につくと、成長した教え子を見るような優しい瞳で私を見つめる。私は彼の正真正銘教え子だ。だが、その下を離れて久しい。多岐川さんにしてみれば不肖の教え子といったところだろうか。
「お前も新人のトレーナーをすることになったんだってな」
「はい。新卒の男の子です。W大学の総代らしいですよ」
 私は不安を誤魔化すように、穏やかな笑顔を浮かべ、早口で言った。不安なときに、不安な顔をしては最もダメだと教えてくれたのも、多岐川さんだった。
 うちの会社では配属される新人に、しかるべき上司がトレーナーとして付き、三ヶ月の間、みっちりと仕事を覚え込ませることになっている。覚え込ませると言っても、殆どは側に置いて仕事ぶりを見せ、それを吸収して貰うだけ。質問があれば、時間のあるときに教えてやる。それだけ。もう彼らも社会人の一員だから、手取り足取りは必要ない生の現場を見せ、文字通りに体験しながら学んで貰う。
 今年、PRチームで研修を受ける男女ふたりの新人のうち、男の方を私が担当することになった。正直、自分の時には、多岐川さんという素晴らしいトレーナーであったから、そう出来るかが不安だ。しかも、パターンはあの時とは逆だから、尚更だ。
「俺も今年はトレーナーになる。開発は人手不足だからな」
 多岐川さんはちらりと私を試すように見たため、一瞬、ドキリとした。
「長谷川夏乃。お前の妹だ」
「なっちゃんを!」
 まさか姉妹揃って、同じトレーナーにお世話になるとは思わずに、私は正直驚いてしまった。
「夏乃は私よりも数倍しっかりしていますから、きっと多岐川さんは、私の時よりも苦労はしないはずですよ?」
「どうだかな」
 多岐川さんは含み笑いをしながらお茶を飲み、まるで思い出したような視線を送るものだから、少し恥ずかしくなる。
「それと、もうひとつ。どうせ、耳に入るだろうから入れておく」
「加賀見が本社に戻ってくる」
 多岐川さんの要用のない低い声に、私は、一瞬心臓が締め付けられるような痛みを感じた。
 もう終わったと思っていたのに、とうの昔に精算が出来たと思ったのに。なのに、こんなにも動揺するのは、やはり心のどこかでまだ求めているからだろうか。
 それはないはずなのに----一度絶望的に拒絶された以上は。
 加賀見拓海----私と同期で会社に入り、新人の頃、開発営業課で同じだった。付き合っていたのか、ただの同期友だったのか、それは解らない。ただ、彼に求められたときに、私が拒絶してしまった。真実はそれだけ。その後、拓海は福岡支社に転勤し、結婚してしまった。その後関西支社に異動になったと聞いている。
 あれからもう8年経とうとしている。
「開発営業課のチーフとして戻ってくるらしい」
「そうですか」
 私は動揺を隠すように、多岐川さんに笑いかけ、落ち着いた大人の女のようにお茶を啜る。
 本当は大人の女なんかに少しもなれてはいないのに。
「もう終わったことですから。拓海くんが帰ってきても、私は平気です」
 私がきっぱりと宣言すると、多岐川さんはスッと目を細めた。
「強くなったな、長谷川。これからは長谷川姉と呼ぶか」
「ええ、強くなりました。呼び方は姉で良いですよ」
 私は、男たちを牽制するために掛けている黒縁の眼鏡を指で引き上げると、立ち上がった。
「それじゃあ、妹をくれぐれも宜しくお願いいたします。これから、新人くんとの顔合わせをしてきます」
「ああ」
 私は颯爽と立ち上がると、てきぱきと食べた皿を持っていく。
「有り難うおばちゃん、美味しかったよ!」
「あいよ!」
 食堂のおばちゃんに私はしっかりと礼を言うと、戦場に向かう。
 この黒縁の通称”ざ〜ます眼鏡”も、パンツスーツも、5センチのハイヒールも、凜と伸ばした背中も、総て私の戦闘を彩ってくれる大切なもの。
 これらがあれば私は大丈夫。
 過去の感傷に何て浸ってる暇はない。
 緩く巻いた長い黒髪を颯爽と靡かせて、私は戦場に向かう。
 子供頃トランプでやった「戦争開始、皆々開始」というかけ声を思い出しながら、私は急いだ。
 私はIDカードをセキュリティチェックに通し、いよいよ戦場に向かう。
 私が部屋で待っていると、今時の巻髪をした茶髪の愛らしい女の子と、その子によく似合う、髪の少し眺めの、嫋やかな肉体が印象的な、背の高い青年が入ってきた。どちらかといえば、甘い雰囲気がある。本当に舐めたら蜂蜜みたいに甘くて青いような気がした。
 新しい風が心に吹き抜ける。
 彼は精悍さと綺麗さを同居させ、何よりも若いきらめきを持っていた。その真っ直ぐな意思のある瞳が私を捉え、圧倒される。
 私も、新人の頃は、こんなにひたむきだったのだろうか。こんなに新しいきらめきを抱えていたのだろうかと。
「榊蓮です。お世話になります」
 爽やかな印象のある青年の笑顔は、無邪気で可愛かった。
「---PRチームチーフ長谷川春乃です」
 新しい時間が刻み始めた瞬間だった-----




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