「四季恋船」
この恋の総て〜春乃の場合〜

2


 トレーナーと言っても、何をどう教えていいかが解らない。
 何でも自分でやってしまう癖がついているせいか、仕事も何を振っていいのかも解らない。
 しかも相手は、最優秀と噂されるイマドキの若者で、一番苦手な部類ときている。
 だから私は武装をする。心も躰も何もかもを。出来る女風のスーツを着て、黒縁の”ざあます”眼鏡をわざとかけて、ハイヒールを履く。勿論、化粧だって手を抜くなんてことは出来ない。これも私の戦闘服の一部だから。
 成長しきれない、いつまでも子供な私を隠すための。
 榊君の姿を見つけるなり、妙に粋がって背筋を伸ばした。
 相変わらず整った顔に甘い表情を浮かべるから、余計に素直に対処しきれなかった。これでは、男慣れしていない女子高校生みたいだ。
「長谷川さん、何でもおっしゃって下さい。手伝いますから」
「有り難う。じゃあ会議の資料を十部ずつ、コピーしてもらっても良いかな。あ、あなたの分も。一緒に会議に出て貰うから」
 わざと低い声を出して、冷たいお局を装った。
「えっ!? 本当ですか?」
 なるほど最優秀なだけあり、敬語もきちんと出来る。だがそれはトレーナーの私の前だからだ。同期の夏乃にはこんな丁寧には話さないだろう。そう思うと、何故だか寂しい。どうしてかは、解らないけれども。
「昼食食べたら会議だから、しっかりと聞いていて。新しいPRコンセプトの会議だからね」
「はい!」
 素直なのか、それともただ装っているかは、僅かに接しただけでは解らない。
 私はつい裏を見てしまうくせがあり、榊くんもそうじゃないかと思わずにはいられなくなかった。
 榊君の背中を見送った後、気合いを入れるために、まるで相撲取りのように頬を軽く叩くと、大きく深呼吸をした。
 榊くんがいなくてもいつもそう。プレゼンテーション前は、微妙な緊張がいつもついてまわる。
 私は榊くんがコピーをしている姿を目で追いながら、何時まで前線で戦う兵士でいられるのだろうかと、ぼんやり考えていた。
 女子アナやキャビンアテンダントの世界では、実質的な『定年年齢』と言われる30を超えているのだから。
「どうぞ、出来ました」
 耳につく甘い声に驚いて顔をあげると、榊くんがコピーを差し出してくれていた。
「あ、有り難う」
 思わず素で挨拶をしてしまうと、榊くんはまるで小さな女の子を微笑えましく思っているかのように、くすりと甘く笑った。
 何だか小さな女の子のように見られるの恥ずかしくて、私はごまかすように立ち上がると、わざとコピーを机の上で揃えた。神経質な音が、私の鼓動を隠してくれる。
「さ、行こうか、榊くん」
「はい」
 榊くんは綺麗な顔に涼しい笑顔を浮かべて、私の後を着いて来た。
 馬鹿にされてはならないと虚勢を張るように、私は背筋を真っ直ぐ伸ばして、会議室まで先導するように歩く。
 ハイヒールで廊下のリノリウムを蹴る音が、私を戦場に駆り立てていた。
 会議室の前に来ると、私は軽く深呼吸をした。
 これから始まる闘いは、孤独なものだから。
 ふと榊くんと目が合った。甘さを滲ませた瞳が、ふわりと包み込むような光を投げ掛けてくる。
 綺麗過ぎて、みずみずし過ぎて、胸の奥がドキリとした。
「頑張って下さい。俺も傍で勉強させて頂きます」
 にこりと穏やかに笑われると、喉がからからに渇いてくる。
 同時に、何故か落ち着くことも出来た。
 榊くんは会議室の端の席で、ノートを片手に腰をかけている。
 私はスクリーンの前に立つと、夏のキャンペーン戦略を、淡々と話し始めた。
 パワーポイントは、後輩の男性社員が、見事なタイミングで操ってくれているから安心だ。
 会議室の端に座る榊くんと、不思議なことに良く目が合うような気がした。
 プレゼンテーションを、メモを取りながら、真摯な眼差しで見つめているのだから当然だけれど、何故だか、私を見守ってくれているような気がしてならなかった。
 脳内妄想? そんな馬鹿なと思う。妄想出来るほどロマンティックに出来てはいないと思いながらも、本当は私が一番ロマンティックなのかもしれない。
 見守られているなんて、相手は九つも年下で、しかも自分はトレーナーなのに、どうしてそう思えてしまえるのだろうか。
 まるでこの空間には、私と榊くんしかいないような錯覚を覚える。
 榊くんがいるだけで、妙に落ち着いてプレゼンテーションが出来た。

 プレゼンテーションが終わり、私は息抜きを兼ねて、社員食堂前の自動販売機で、ミルクティーを買おうとした。
「…お疲れ様です。良かったですね、長谷川さんのプレゼン内容が採用で」
 榊君がタイミング良く差し出してくれたのはミルクティーで、私は驚いてしまった。まるで私のことを総て解ってくれているかのような、そんな錯覚を覚えた。
 どうして解るのと瞳で訴えかけると、榊くんはただ静かに笑うだけ。
「どうぞ、長谷川さん」
「有り難う」
 ニコリと微笑まれるのが嬉しいくせに、恥ずかしさの余りに素直になれず、私はむすりとした態度で受け取ってしまった。
 榊くんは自分の分のブラックコーヒーを買い求めると、私の横に並んで立った。
「今回のプレゼンテーション、聞かせて頂いて、とても勉強になりました」
「良かったよ、それは」
 ちらりと横目で榊くんを見る。
 随分と豊かな身長で、躰もしなやかな獣のように無駄なく美しい。私なんて、いくら五センチハイヒールを履いても、一六二が関の山で、とうてい一八十を軽く越えた榊くんと比べると、大人と子供のようだった。
 外見は、女子社員が十年に一度の逸材だと噂することもあり、今時の美しさと精悍さが同居している。
 しかも、中身までも十年に一度の逸材と聞いている。
 ぼんやりと榊くんの横顔を見つめていると、ふとこちらの視線を、自分の視線で捕らえてきた。
 ニコリとまた笑われて、心臓が奇妙な踊りを始める。
「長谷川さんの企画したキャンペーン、インパクトがありますよ。女性用化粧品のことは良く解らないですが、敢えて、有名人を起用せずに、日常の風景を印象が残るストーリー仕立てで撮っていく。今のコマーシャルは記号化したものが多いから、印象に残りますよ」
「だと、いいけれどね…」
 プレゼンテーションは終わったが、これからやらなければならないことは山ほどある。
 コマーシャル、イベント、雑誌、商品を扱ってくれている店舗へのキャンペーン通知…。
 考えるだけで窒息しそうだ。
 けれどきっと充実したものが作れると、私は信じて前に進むだけ。
 甘ったるい癒しのミルクティーを飲み干すと、何故だか元気が出て来た。
「あれ! お姉ちゃんとレンレンじゃん!」
 聞き慣れた声に顔を上げると、妹の夏乃が相変わらずのパワフルさで、こちらにやってきた。
「夏乃!」
 榊くんが妹を呼び捨てにして、胸の奥が矢に刺されたようにドキリと跳ね上がった。頭が痺れてしまうぐらいに、変にテンションが下がってくる。
 ふたりは同期なのだから当然だと思いながらも、どこか仲間ハズレになったような気分になる。
 夏乃は自動販売機の前で、疲労困憊とばかりに溜め息を吐きながら、飲み物を選んでいた。
「私はブラックかなあ、やっぱり! レンレンとお揃いっていうのは嫌だけれど」
「お前、少しは黙れよ。ったく、その呼び名は止めろよな。何だか、パンダにでもなっちまったような気分になる」
 榊くんはどこかうんざりしているようだったが、言葉の端々に愛情が感じられる。言葉遣いも、私の時とは違って砕けていて、親しみが込められている。きっと夏乃のことが好きだから、私に良くしてくれているのかもしれない。
 そんな淋しいことを考えながら、私はふたりの様子を眺めてしまう。
 ふたりのなかに上手く入れない自分が悔しくて、どこか強がりでしらりとしたりする。
 夏乃は榊くんと賑やかに話しながら、男前なスタイルでコーヒーを飲み干すと、慌てたように時計を見た。
「行かなきゃ! トレーナーにどやされる! じゃあね、お姉ちゃん! レンレン!」
 まるで風のように走っていく夏乃に苦笑いしていると、背後から懐かしい声が聞こえた。
「なっちゃんは相変わらずだな」
 振り返るとそこには、かつて私が恋をしたひとが立っていた---加賀見拓海が。
 恋をしていた頃に記憶は遡るのに、もはや、恋情は戻らない。
 月日も経ってしまったし、何よりも相手が結婚したのだから。今は、恋をしていた過去の人と訂正をしなければならない。
 自然に立ちまわれるはず。
 なのに言葉を続けることが出来ない。
「……」
「久しぶりだな」
 拓海が薄く笑う顔も、どこか疲れているように見えてしまう。刻まれた皺が経年と過酷な日々を表しているようだ。何故だか、淋しい気分になってしまっていた。
「今日から本社だ。よろしくな」
「はい、加賀見さん」
「長谷川さん! 仕事に戻らなくちゃいけません! 行きましょう」
 榊くんはいきなり空気を読めていないような大きな声を出すと、私の腕を取った。
「あ、うん。じゃあ、また、加賀見さん」
 拓海にさらりとした挨拶をすると、私は榊くんに連れられるように、オフィスに戻る。が見えなくなると、榊くんはさりげなく腕を離して来た。
「大丈夫ですか?」
 気遣いのある落ち着いた声と瞳に、私は悟る。
 榊くんが誰よりも空気が読めることを。




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