アスール・ルーノ

4


 翌朝、まだ身体が充分に起きていないうちに、ルーナたちは帝都に向かって出発をした。
 夜のうちに冷えた空気が肌をチクリと刺すが、意外なほどに気持ちが良い。朝陽は柔らかな優しい光をルーナに投げかけていた。

 砂漠を離れ、今度はひたすら固い土の道を走ってゆく。流石に、帝都に近い道は綺麗に整備され、早朝でも、物流や仕事の為に、商人や騎士たちが行き交っていた。帝都に続く道は、活気を帯びている。刺客が堂々と働けないほどに。

「これだと、かなり早くに帝都に到着できるだろう。到着してすぐで申し訳ないが、宮殿に向かう。すぐに診察をして欲しい」

 帝都が間近である空気を感じてか、ソーレの表情も硬く厳しいものとなる。その横顔は冷たく、完璧な美貌をさらに魅惑的に見せている。
 もう、あの気安い青年の顔ではなく、第一騎士団団長としての顔だ。凛とした厳しい横顔がルーナに語っていた。月の民のルーナには、近寄りがたい顔だ。

 アーキルもまたその横顔に厳粛さを漂わせていた。医師としての冷静さと同時に、ひとりの人間としての重い緊張が、横顔から見て取れた。

 厳格さと鋭さが感じられるが、ふたりともとても良い顔をしていると。
 ふたりの男の実力は、未熟な自分でも解るとルーナは思う。
 このふたりが厳しいと感じるほどのことが待ち受けているのだろうかと思うと、ルーナにも神聖なる緊張が漲った。

 朝の清らかな朝陽を浴びたソーレの金色の髪が、皆既日蝕のダイヤモンドリングのように美しく輝いている。言葉では言い尽くせないほどに美しい。蒼い瞳は朝陽を弾いて、宝石以上の輝きを放っている。だが、その眼差しには、冷え切った苦しみが陰っていた。
 まるで神話に出てくる太陽神のようだ。見ているだけで、心が揺さぶられる。まるで芸術品を見ているような、一瞬で人を魅了してしまう魅力をたたえている。

「何を見ている」

 ソーレはうんざりするように呟く。

「芸術品みたいだなあと思っただけですよ。展示して皆に見せたい」

「はあ!?」

 ルーナの惚けた言葉に、ソーレは素っ頓狂な声を出す。それを見たアーキルが、忍び笑いを浮かべていた。

「間もなく帝都シエネだ」

 ソーレの言葉に、ルーナの気持ちも表情も流石に引き締まる。

 帝都に入るのは初めてだ。
 ずっと、帝都に行きたいとは思っていたが、仕事ではなくあくまで遊びに行って、帝都見物を満喫したいと考えていた程度だった。
 学校に通っていた時の研修で帝都に行くことになっていたが、おばばに行かせてもらえなかった。

 ルーナにとって、これが初めての帝都だ。だが、これが最初で最後かもしれないから、この目に、しっかりと帝都の様子を焼き付けておこうと思った。このような経験は、出来ないかもしれないから。

 いよいよ、活気溢れる帝都シエネに足を踏み入れた。いつも過ごすベリトスの町とは比べものにならないぐらいの大きな街だ。
 空気が違うと、ルーナは思った。同時に、ベリトスの町とは匂いが違う。ベリトスは砂と乾いた緑の匂いがしたが、ここは砂埃とどこか冷たい無機質な臭いを感じずにはいられなかった。

 店も、人も、活気も並外れていて、ルーナは圧倒されそうになる。同時に、息が詰らないだろうかと、心配してしまった。

 流石に街の中に入ると、馬のスピードを緩やかにする。

 帝都に入ったものの、これからことを考えると、観光気分には浸っていられなかった。

 帝都の住民たちは、ルーナの姿を見るなり、誰もがヒーラーだと噂をする。都会にヒーラーは珍しくはないというのに、珍獣でも見るかのように見ていた。

「ねえ、ソーレさん。帝都にヒーラーは珍しくないでしょう?」

「ああ。珍しくはないが、お前のような若い娘がヒーラーなのは珍しい。帝都で活躍しているのは、高いライセンスを持った、熟練のヒーラーたちが多いからな。それに、目立つ第一騎士団長が連れているから余計に珍しいんじゃないのか?」

 アーキルは苦笑いしながら。町の人々に一瞥を投げた。

 第一騎士団団長に連れられた年若きヒーラー少女を、町人たちは珍しそうに見ている。
 帝都は大都会なのだから、ヒーラーなど掃いて捨てるほどいるだろう。だが、アーキルが言う通りに、第一騎士団長と一緒にいることが、好奇の対象になったのだろうと、ルーナは思った。

「宮殿はもうすぐだ」

 黄金と銀細工が美しい白亜の宮殿が、ルーナの視界にも飛び込んできた。威厳と優美さを兼ね備えた、芸術品とも思えるような、素晴らしい宮殿だ。
 同時に、ルーナには、救いようのない牢獄にも見えてならなかった。捕えられると、二度と出ることが出来ない牢獄のようだ。
 どうしてそのように感じるのかは、ルーナには解らなかった。

 高い城門が見えてきた。
 その前に立つ立派な姿をした門番の騎士が、ソーレの姿見つけるなり、背筋を伸ばし、直ぐに門を開く。

「第一騎士団長! ソーレ・アポロ殿とそのお連れの皆さま! 参内であります!」

 門番の騎士の高らかな声と敬礼に、ルーナは恐縮しながら宮殿の中に入った。おまけの立場の自分がここまで敬意を払われるのは、心地悪かった。

 門をくぐって、ゆっくりと進むと、あれだけ賑やかだった市街地から一転し、とても静かだった。
 広大な森が広がり、優しく宮殿を抱いているようだ。
「この先、暫く、走るぞ」

 ソーレは一気に馬の速度を上げ、ルーナたちもそれに続く。
 皇帝が住まう敷地である宮殿は、ルーナが想像できないぐらいに広大だった。
 馬を走らせても、中々宮殿には到達しない。あんなにも近そうに宮殿は見えているのに、なかなかたどりつけない。
 空気が違う。
 この場所だけが、時間の流れとは別の場所に存在しているようにすら、思えてしまう。

「もうすぐだ。この森を抜けたら、すぐ奥に厩舎がある。そこで、馬をゆっくり休ませてやってくれ。かなり無理をさせているからな。シエネからベリトスまでは、馬車では3日はかかる距離だからな。とにかく、ゆっくりさせてやろう」

 ならば、ソーレの馬は相当無理をしているということになる。短い期間で、シエネとベリトス間を往復したのだから。ルーナは心配になった。

「あの、三頭の馬をヒーリングしても構わないですか? そうしたら、少しは疲れが癒されると思います」

「頼んだ。陛下が住まう場所であるが故に、癒しの剣は使えないが、構わないか?」

「はい」

「なら、頼んだ」

 ソーレは金髪の髪を野性的になびかせながら、どこか考え込むような表情を浮かべた。
 まただ。とルーナは思う。昨夜、刺客に襲われた時も、同じような表情をしたのだ。
 何かを言いたくても、黙っているような雰囲気が感じられる。後で、ソーレに訊いてみようと、ルーナは思った。

 やがて厩舎が見えてきた。宮殿の中の厩舎と言うこともあり豪華で立派だ。昨日、ルーナたちが泊まった宿よりもずっと豪華だ。つい『お馬様』と呼んでしまいそうになった。

 三人は、厩舎に馬を預ける。ここで、馬たちの長く過酷な旅は終わりだ。
 ルーナはホッとしたような馬たちを、それぞれ抱きしめた。早く、身体が元に戻るように。疲れが癒されるように。ルーナは心をこめて癒しの力を送った。

 流石に皇帝がいる宮殿では、癒す力があるとはいえ、剣を抜いて振るうことなど出来ないから、抱擁に癒しの力を込めたのだ。癒しの力はこれで充分だったようで、先ほどまで疲れたように瞳に生気がなかった馬たちが、活き活きとした瞳になる。長距離旅したとは思えないような闊達が感じられた。

「良かった。少し良くなったみたいね。しっかり癒してね。君はこれで旅は終わりだろうけれど、君たちはまたベリトスまで戻らなければならないからね」

 ルーナが馬たちに優しく話しかける様子を、ソーレが厳しい眼差しで見つめている。こういった行為が嫌いなのだろうか。ルーナがそう思わずにはいられないような冷たい瞳だった。

 ソーレは気安くも明るい表情を見せる時と、先ほどのように極端に厳しい眼差しを見せる時とがある。この短時間で、どちらも見せつけられ、どちらが本当のソーレなのかと、ルーナは困惑した。

「さあ、行こう。アーキル、ルーナ。エスメラルダ様がお待ちだ」

 "エスメラルダ"。
 その名前を聞く度に、アーキルの表情が複雑に曇って頑なになる。ルーナが知らないアーキルの表情だ。どこか甘いやるせなさが感じられる表情だった。
 精悍さと厳しさ----それらが同居したアーキルの表情は、ルーナの心を引き締める。
 この仕事は、きっと重要な意味を持つに違いない。ルーナは強く肌で感じていた。

「ルーナ、行くか」

 透明感のある低い声で名前を呼ばれて、ルーナの緊張感が全身に走り抜ける。アーキルのこのような声を聞くのは、初めてだった。

「アーキル、ルーナ。ヒーラーとして、医療に携わる者として、全力を尽くしてくれ。もう、お前たちにしか頼ることが出来ないから」

 ソーレのルーナとアーキルを見つめる眼差しは、期待というよりは、縋りだった。崖淵にいるような目をする。それ故に、ルーナは重圧を感じずにはいられない。今から皇族の治療に行くのだと、改めて思い知らされた気分だった。

「ヒーラーとして全力を尽くします。今、私が持てる総ての力を使います」

 ルーナはキッパリと言い切った。自分でも解っている。今はそれしかないのだ。ルーナがやるべきことは、出来ることは、ヒーラーとして全力を尽くすことだけなのだから。

「ああ。頼んだ」

 ソーレは生真面目な表情で神妙に呟くと、一瞬、目を伏せた。
 また、陰りのある眼差しだ。
 太陽と言う名を持つ男には、似つかわしくない瞳のように見えた。

「この先は、許可がないと入ることが出来ない場所だ。だが、今回は、特別に、お前たちは医師として中に入る。俺は、お前たちに立ち会う者として、中に入ることを許されているだけだ」

 第一騎士団長はかなりの重責で、地位も高いとルーナは聞いたことがある、そのソーレすらも自由に出入りが出来ない場所と言うのは、緊張する。
 本来、ルーナなど、一歩として入る機会などない場所だ。

 ソーレは、宮殿の奥深い場所にふたりを誘う。先に進めば進むほど、ルーナは息苦しさを感じずにはいられなかった。
 鼓動が速くなり、緊張の余り呼吸が浅くなる。ルーナは思わず縋るように、横にいるアーキルを見た。アーキルは、ルーナよりも緊張をしているようにすら見えた。

 アーキルにとってはよほど大切で、かつ、神聖な場所なのだと、ルーナは感じ取る。
 突きあたりに優美な白い扉を見つけ、ルーナの身体は緊張で更にぎこちなくなった。
 あの場所に、エスメラルダ姫がいるのだろう。
 扉からは慟哭が滲み出て、ルーナの肌に突き刺さってきた。ヒーラーの中でも、人間の想いに敏感なルーナは、哀しみのオーラに共鳴しそうになる。一緒に溺れることがないようにと、ルーナは自分自身に言い聞かせた。そのせいか更なる厳しい緊張が、ルーナを被う。
 だが、ここで緊張に負けてはならない。ルーナは背筋を伸ばした。

 白亜の扉の前で立ち止まると、ソーレは直立不動になった。

「第一騎士団団長、ソーレ・アポロです。エスメラルダ様のために、医師とヒーラーを連れてまいりました」

 ソーレの声に、扉が荘厳な音を立てながら静かに開き、女官らしきかっちりとした女性が中から現れた。金属のような冷たさすら感じる、全く隙のない女性だ。まるで教師のようにも見える。

「ご苦労様です」

 女性は厳かに声をかけた後、悪意すら感じてしまう起伏のない眼差しを、アーキルとルーナに向けた。

「アーキル、お久しぶり。お元気そうね」

「お久しぶりです、ハルマ様。ハルマ様もご健勝でなによりでございます」

 ハルマと呼ばれた女性とアーキルを、ルーナは交互に見る。ふたりの表情を見ていると、何か軋轢があるのではないかと、ルーナが感じずにはいられないほどに、険悪が滲んでいた。

 女官と知り合いと言うことは、アーキルは高い地位の医者だったのではないかと、ルーナは憶測する。

「軍医を辞した後、ここでのお勤めを断って、ベリトスで医師をしているそうね」

「はい」

「その隣にいる子が、あなたのパートナーである、月の民のヒーラーね。随分と若いこと」

 ハルマはルーナを値踏みするようないやらしい目つきで見つめる。ルーナは思わず身体を引いた。

「実力は折り紙つきだ。あなたにそのような目で見られる筋合いはありません。ルーナはおばば様が直々に仕込んだヒーラーであり、俺が医術を教えている愛弟子ですから」

 アーキルは表面上冷静さを装っているが、ハルマに対して、好ましくない感情を持っているようだった。一緒に居て、ルーナは緊迫した居心地の悪さを感じる。

「まあ。では、この子が……。随分と幼いのね」

 ハルマのルーナを見つめる眼差しが益々厳しくなる。ルーナは、どうしてこのような眼差しで見つめられるのかが、解らなかった。ハルマの眼差しが不快で悪意に満ち、ルーナは落ち着かなくなる。このような慇懃無礼な眼差しに遭遇したことがなく、不快にしか感じられない。

「では、お入りください。エスメラルダ様がいらっしゃいますから、どうか、お静かに」

 ハルマの後を、アーキル、そしてソーレが続く。
 ルーナは、緊張の糸が張りすぎて、今にも切れてどこかへ飛んで行ってしまうのではないかと思うほどに、ぎこちない動きしか出来なかった。

 エスメラルダ姫がいる部屋に入ると、明るく、そして優美で優しい雰囲気を感じられた。窓が開かれて、とても心地好い風が入り、花と緑の麗しい香りすら感じる。
 この部屋に暮らせば、さぞかし快適だと思う。この部屋にいるだけで、病などどこかに吹き飛んでしまうだろう。お姫様には相応しい部屋だ。

「エスメラルダ様、医師とヒーラーが参りましたよ。アーキル殿とルーナ殿です」

 ハルマが声をかけると、エメラルド色の麗しい髪の色をした女性が、ゆっくりとからくり人形のように振り返った。
 優しい花の香りがする陽射しに照らされた、この世のものとは思えないほどに綺麗な女性が、ルーナの視界に飛び込んでくる。

 本当に美しい。こんなに美しい女性に今まで出会ったことはないと思ってしまうほどに、美しい。
 どこか人工的な雰囲気もあったが、流石は姫であると感心せずにはいられない麗しさがあった。

 何も語らずに、ただ、ルーナたちを見つめている。心などないとばかりに、虚ろな眼差しを向けていた。碧の宝石のように美しい瞳をしているというのに、瑞々しい生気が全く感じられなかった。しかも、ルーナたちが見えているのかも疑わしかった。

 こんなにも美しいのに。麗しいのに。全くと言って良いほどに、生きているという感覚がない。まるで人形を見ているようだと、ルーナは思った。

 エスメラルダ王女は、ルーナたちに一瞥を投げた後、まるで興味がないとばかりに、再び宙を見つめる。

 ルーナは、横にいるアーキルに視線を送った。
 アーキルの顔色は、精製された美しい紙のように白くなり、ただ、茫然と、エスメラルダを見つめていた。
 驚き過ぎたからか、眼は見開いたままで、動揺し過ぎて動けないようだった。だがその表情は、どこか痛々しいものを見た時の絶望にも見える。

「エスメラルダ……」

 アーキルは唇を深く噛み締め、その手は震えるほどに固く強い拳を作る。アーキルの魂からは、慟哭が迸っていた。

 ルーナは、アーキルに共鳴してしまい、胸が締め付けられるほどに苦しくなる。今にも泣きそうになるような重さを感じた。

「ずっと、ああなのですよ。誰が癒しても、誰が治しても、改善されないのです。アーキル、あなたを医師として呼ぶのは、正直言って抵抗がございます。ですが、もう、あなた以外に頼れない。帝国一の医師であるあなたにしか……」

 ハルマは唇をかみしめ、目を伏せた。
 もうお手上げの状態であることを伝わる。
 悲痛な表情なのに、ハルマがエスメラルダを深く思っているようには感じなかった。
 アーキルの想いとハルマの想いは明らかに違う。
 違和感がある。

 ルーナはエスメラルダを見つめる。
 本当にどうして癒せば良いのだろうか。
 このように心がないと感じられる患者に出会ったルーナは初めてだった。
 今までは患者の心の機微を感じ取りながらヒーリングをしてきたが、これではどうして良いのかルーナには解らない。

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