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ルーナが家に戻ると、おばばが既に待ち構えていた。総てを解っているからか、堂々とした威厳のある瞳を、ルーナに向ける。凪のような静けさだった。 「……行くのじゃろう……。ルーナ、支度をしなさ。それが終われば、わしの部屋に来なさい」 おばばは静かに言った後、ルーナに背中を向けて自分の部屋に入ってしまった。 何処かいつものおばばとは違う。心の機微を余り見せない人だが、今日に限っては、どこか寂しそうにも、いつも以上に高貴な凛々しさがあるようにも、ルーナには見えた。 「おばば様……」 いつもならば、今回のような依頼があったとしても、おばばが半人前のルーナを行かせるようなことは、絶対にしない。半人前を行かせると、月の民のヒーラーとしての、医師としての信頼が損なわれるからだ。 だが、今回は許可が下りたのだ。その決断自体が、いつものおばばとは違っていた。 しかも少数民族の月の民を、特に優遇をして保護をしてくれている皇室の依頼なのに、今回は、半人前のルーナを行かせてくれる。今までのおばばでは考えられないことだった。 ルーナは部屋に入ると、手早く出立の準備をする。今回は、ルーナにとっては大きなチャンスだ。月の民のヒーラーとして、ひとり立ちするチャンスなのだ。 皇室の依頼とはいえ、今回はそんなにも時間は取られない案件なのかもしれない。だからこそ、おばばが行かせてくれたのかもしれない。それに、今回は、アーキルが一緒にいてくれる。一人ではないから、ということもあるのかもしれない。 とにかく。ルーナにとっては、ヒーラーとしての初めての大仕事だ。上手く立ち回らなければならない。 ルーナは気持ちを引き締めて準備をすることにした。 数日分の衣類と仕事に必要な道具を手早く纏める。どれも、大医師であり、大預言者であるおばばから貰った貴重なものだ。 「どうか、私に力を貸して下さい」 ルーナは医療器具やカードを収納する際に、心をこめて祈るように声をかけた。そうすることで、おばばの力を借りることが出来るのではないかと、思った。 荷物をまとめた後、ルーナは身支度も整えた。帝都までの道のりは長い上に、夜は気温が下がる砂漠を横断しなければならないため、ポンチョと、月の民の民族衣装とも言える、頭から被るヒジャブを身に付けた。 念のため、月の民に携帯が許されている剣を腰に下げる。 月の民の能力は、帝国内でも認められており、何かあった時のために、護身用として長剣携帯が認められていた。 剣を携帯すると不思議と背筋と心がしゃんとして伸びる。ルーナは深呼吸をすると、心が落ち着き、更に前を向いていかなければならない気持ちになった。 始まるのだ。 準備を滞りなく終えると、ルーナはおばばのところに向かった 「おばば様、ルーナです」 「お入り」 おばばはいつも以上に重厚な声でルーナを部屋に招き入れてくれた。 おばばは背筋を伸ばして、静かに立っている。慈愛と厳しさのどちらも感じられる姿だった。 おばばの部屋はいつも白檀の香りがして、とても落ち着く。今日は特にルーナの気持ちを静めてくれる匂いだった。いつも以上に澄みきった気持ちにさせてくれる。 「ルーナ、こちらへ」 「はい」 おばばは威厳を滲ませながらルーナを見る。いつもとは違った、透明な緊張が滲んだ。 「ルーナ、これを持ってお行き」 金属の優しい響きと共に現れたのは、月の細工が細かくされたとても優美な銀色の剣だった。おばばはそれをルーナにそっと差し出す。 「これはお前を守ってくれる。ただし、この剣は、お前にしか使えない代物だ。それを忘れぬように。これは、かつてはお前の母親も使っていたものだ。この剣は今までわしが預かっていた。時が満ちたから、お前に返します。大切にしなさい」 おばばは淡々と話しながら、声と眼差しは慈愛と哀しみに溢れていた。無機質なのにどこか温かい声だ。 その声に導かれるように、ルーナはおばばから剣を受け取った。 母親が持っていた剣。ルーナは思わず剣を抱きしめる。 おばばから初めて母親の話を聞き、ルーナは泣きそうな気持ちで、皺だらけのおばばの顔を見つめた。 今までルーナの母の話は、禁忌だった。こうして、おばばの口から、母の話が聞けるなんてないと思っていた。ようやく母親の話を少しでも聞くことが出来て、ルーナは涙が溢れるほどの切ない喜びを感じる。 ルーナに母親の話が出来る日を、おばばはずっと待ってくれていたのだろう。それがルーナには有難いと思った・ 母の顔も知らず、ましてや父親が誰かも解らない。ずっと触れてはならないと、訊いてはならないと思って、口に出せなかった母親のことを少しでも聞けて、ルーナはそれだけでも嬉しかった。 「----ルーナ、月の民の誇りを持って、お行きなさい」 「有り難うございます、おばば様!」 おばばから母の形見の剣を受け取ることが、魂が震えるほど嬉しかった。魂の震えが、ルーナの指先に伝わる。 魂の底から揺さぶられるほどに感動してしまい、ルーナはその証の熱い涙を溢した。 「……大事にします。そして、月の民の誇りを持って、頑張って参ります」 「いっておいで。しっかり頑張っておいで。待っているから」 おばばはルーナをしっかりと抱き締めた。温かな抱擁に、ルーナは勇気が溢れてくる。 おばばの温かな力が自分に流れ込み、血が湧き立つ。おばばのように立派にとはいかないが、初めての重責も精一杯頑張れるような気がした。 抱きしめてくれたおばばの身体は柔らかくて温かかった。同時に、おばばはなんて小さいのだろうかと、ルーナは実感する。ずっと大きな人だと思っていた。今でも心は誰よりも大きな人だ。だが、身体はいつの間にか、ルーナのほうが大きくなり、おばばは小さくなっていた。 それが切なく、哀しくもあった。 「そろそろ、ソーレ殿とアーキル殿が迎えに来る。月の民としてしっかりやってきなさい」 「はい、おばば様」 おばばの皺で刻まれた手のひらで頬を触れられると、叡智と癒しを感じずにはいられない。 目を閉じると、おばばの大いなる力がしっかりと自分の中に流れてきていることを、ルーナは実感する。とても温かな強い力だ。 このひとの力によって今まで護られてきたのだ。そして今も護られているのだと、ルーナは強く感じる。 今まではずっとおばばに慈しんでもらい、護られてきた。 だからこそ、今度は自分の足で立って、おばばを護ることが出来ればと、ルーナは強く決意する。 「お前ならきっとやり遂げる。そう思って送り出すのじゃからな」 「はい、おばばさま」 ルーナは、大きな琥珀色の瞳に温かな涙をいっぱいに貯めて、頷いた。 おばばの皺の刻まれた手が離れてゆく。この手はおばばの人生そのものであり、今までの英知が凝縮されている。だからこそ、ルーナは、ここから注がれる力に、より大きな力と勇気を貰う。 この力が、自分の力を大きく、そしてもっと温かくしてくれる。ルーナは細胞の隅々までそう感じた。 ふと、部屋を間仕切る麻のタペストリーが開かれる。 「おばば様、ルーナ、お話し中、申し訳ございません。第一騎士団長殿とアーキル殿が見えられました」 おばばの助手であるアイーダに声を掛けられ、おばばはしっかりと頷く。 「解った。入ってもらってくれ」 「はい、かしこまりました」 アイーダが声を掛けると、ソーレとアーキルが部屋に入ってきた。 「失礼いたします」 ふたりとも緊張とどこか礼儀正しさを漂わせて、おばばに深々と一礼をする。 「おばば殿、月の子を借りてゆきます。任務遂行後、無事に送り届けます」 ソーレは、おばばに誓うように、しっかりと目を見て真摯な態度を貫いた。 「解っております。ルーナお前は先に出ていなさい。少しだけ、ソーレ殿とアーキル殿に話があるからな」 「解りました」 ルーナは、おばばに従い、先に外に出ることにした。 外の空気が先ほどとは違っていると感じる。それは、明らかに、自分の中に何かが芽生え、それが力強くなっていることに、ルーナは気付いた。 見上げると大きな青空が瞳にしみるぐらいに眩しい。とても綺麗だ。ルーナは、アーキルとソーレを待つ間、空と風を感じていた。 ルーナが部屋から出た後、おばばの瞳に宿る光は、一層、厳しくなっていた。 「どうか、ルーナを頼みます、お前様方ならばきちんとルーナを護ってくれることは解っています。ソーレ殿、そしてアーキル殿、ルーナを頼みました」 おばばはソーレとアーキナルに深々と頭を下げ、ふたりもまた恐縮をして頭を下げる。 「お二人とも、わしがお頼み申した戒めは、きちんとお守り下され。その条件で、あの子を出すのですから」 「解っています」 アーキルもソーレも、決して破ることがないと心に誓って、強く頷いた。 破ることは、この世に一つの闇がやってくることを、誰よりも解っているつもりだった。 「ルーナには、誰にも恋をさせてはなりませぬ。それだけはお守り下され。恋をすれば、あの子は母親のように命を落とす。蒼い月の夜に生まれた月の民の女子は、強い力を持つ。それと引き換えに、恋をし、やがて子を育むと力が制御出来ずに死んでしまうのです。しかもルーナは母より力を引き継がれていますから、余計に制御が難しい……。ですから、頼みます」 おばばは苦悩に満ちた悲痛な声で呟きながら、苦しげに眼を閉じた。 ソーレは、おばばの哀しみで空気が揺れたような気がする。 “月の子”に恋はしない。それよりも、自分は誰にも恋をしない。 おばばの気持ちを痛く受け止めながら、ユーグは冷たい月を抱いたような気持ちになっていた。 「それさえ護って頂ければ、ルーナは必ずやお役にたつはずですから」 「おばば様の仰ったことはきちんと守るつもりでおります。こちらこそ、無理を言って申し訳ございません」 ソーレは礼儀正しくおばばに言うと、アーキルとふたりでもう一度、頭を下げた。 「おばば殿、ご心配されますな。ルーナはソーレと俺がきちんと守りますから」 アーキルは、いつものいい加減さは封印し神妙に呟く。誰よりもその意味を知っているからこその、強さだった。 「頼みました。あの子は何も知らぬ世間知らずであるから」 「必ず、約束は守ります」 アーキルもソーレも、おばばに力強く誓った。 「では、俺たちは参ります」 「ああ。気をつけて。月の神のご加護を」 おばばにもういちど深々と頭を下げた後、緊迫した気持ちを抱きながら、ふたりは家を出る。 外にはルーナが待っていた。 目を眇めるほどに眩しい青空を見上げるルーナの姿を、ソーレもアーキルも、一瞬、凝視してしまう。透明でどこか儚げな印象があった。 「月の子!」 ソーレに声を掛けられて、ルーナは視線をゆっくりとふたりの男に向ける。ルーナはふたりを見るなり笑顔になると、元気よくぶんぶんと手を大きく振った。 「行くぞ。これから帝都までの道のりは長いからな」 「はい」 ソーレの厳しい眼差しに、ルーナもまた気を引き締め頷く。これから先が過酷な道のりになるということは、ルーナには解っていた。 「では、出発だ」 ソーレの号令に、ルーナは荷物を手早く積んで、愛馬に跨る。 目を閉じると、砂漠の乾いた砂の臭い、オアシスの温かな水の臭い、そして、おばばの白檀の匂いが入り混じり、風となってルーナの鼻孔に入り込んでくる。とても落ち着いた気持ちにさせてくれるのは、かけがえのない故郷の匂いだからだ。 アーキルやソーレも立派な馬に跨り、砂漠を越えて帝都へと向かう。 初めての大きな仕事。ルーナの気持ちが引き締まる。 ソーレを先頭に、ルーナ、そしてアーキルの順で、帝都に向かって出発をする。 この先に何が待っているかは解らない。 だが、明らかに人生の新しいステージに向かっているのだと言うことを、ルーナは感じずにはいられなかった。 |