*好意と恋の狭間*


「残業ですか、川上さん」
「少しやっていこうと思って。今度のCMの下準備」
 顔を上げると、そこには3つ後輩の高崎くんが、感心するように立っている。逞しい首筋には疲れが滲んでいて、その激務を感じさせた。
 目が合うと、涼しい眼差しに綺麗な笑みが浮かぶ。屈託のない笑みを純粋に向けられると、心臓が飛び上がってしまう。余りに眩しかったからドキドキしただけ。そう、ただそれだけなのだ。高崎くんに対して、恋愛感情何てあろう筈はない。私たちは仕事仲間であり、同志で同時にライバルなのだから。
 高崎くんは入社して3年目の、若手では抜きに出た存在だ。特に私たちが所属する広報部マスコミチームの中では、特筆して輝いている。いつも自分には厳しいが、穏やかで周りへの気配りも細やかだ。仕事が出来るものというのは、元来そう言うものなのかもしれない。
 仕事が出来て、優しい。なんて完璧なカレ。そのせいか隣を狙っている女子社員も多く、さりげない火花が毎日のように散っている。高崎くんの周りはいつも華やかだ。
 私はいつもその花火が飛び散る烈しい場所からは無縁の、かなり蚊帳の外でじっと行方を見ている。そこに私が入ることはあり得ないから。
 -----だって、私たちはライバルだもの。
 同僚としてもライバルとしても素晴らしく、恋愛関係を抜きにしてつきあえる異性だと、思ってはいる。それが最近崩れそうなのが、怖いけれども。
 私は媚びることのない笑みをクールに浮かべて、背の高い高崎くんを見上げた。
「高崎くんも残業?」
「はい。今日中に作成しなければならない書類があって、もう一がんばりしないとと思っています。だけどこれからが長いから、少し気分転換をしようと思って…。川上さんもいかがですか? 自動販売機前のティーブレイク」
 まるで子犬のようにつぶらな瞳を向けられると、断り切られない。
 いつも眠気を吹っ飛ばして根性で巻いている内巻きの髪をかき上げながら、私はわざと気のないふりをした。本当はその笑顔でくらくら思想で下だなんて、言えないもの。
「そうね。少しブレイクしようか」
 私がデスクから立ち上がると、高崎くんが僅かに笑った。
 女子社員が殆ど消えた廊下を、高崎くんとふたりで他愛のない話をしながら歩く。隣の高崎くんを見ると、豊かな身長であることを思い知らされる。私がいくら鎧のようにハイヒールを履いて、カツカツ察そうに歩いても、高崎くんの精悍さや滲み出る大きさには、とうてい及ぶことはない。
 私は158センチの身長を誤魔化すように7cmのヒールを履いているが、高崎くんは元々ラガーメンだということもあって、185センチもある。
 この身長の溝を埋めるたまえに、私は胸を張って強がりながら颯爽と歩くしかないのだ。
 高崎くんと対等に、いいや一歩先を歩かなければ、私のプライドが許さない。本当はもろくてくずれそうな豆腐のようなプライドだけれども。会社にいるときだけは、まるで煮る前の高野豆腐みたいに堅くなる。
 私たちは、休憩スペースに行くと、自動販売機の前に立つ。
「今日は俺が奢りますよ。川上さんを誘ったのは俺だし」
「いいよ、自分で出すよ」
「いいえ。出させてください。その代わりに、次は川上さんが払ってください」
「解ったわ」
 これなら私のプライドは崩れず、お互いの花を持たせる形になる。私たちはお互いに良い距離を保ち、偽物の有効を結んでいる。それがピッタリなのかもしれない。
 ふと高崎くんの横顔を見た。
 疲労とともに、歪んだ艶やかさが滲んでいる。疲れたように小さな溜め息を吐くと、高崎くんは無意識にネクタイを緩めた。
 落ち着かない、本当に不謹慎ながらも鼻血が出てしまいそうな気分になる。----私は貧乏揺すりをするのを何とか堪えて、高崎くんから視線を逸らした。
 喉の奥が砂漠みたいに乾いている。それとも亜熱帯植物園のように、派手な色をちかちかとさせているのかもしれない。
 女28歳は発情期? いえいえ、そんあものはとうに済んで、後は干物のように枯れていくだけなどと、心の中で言い聞かせていると、突如、高崎君の少年ぽい低い声が降りてきた。
「何が良いですか?」
「え、あ、カフェオレ」
「解りました」
 くすりと笑われたような気がした。
 何だかその笑みにムッとして、私が解らないように唇を尖らせると、今度は咽を鳴らしながらくつくつと笑う。
「何よ? カフェオレ似合わない? 確かに二度漬け禁止の串カツ屋で冷やを煽るのが似合っているけれど、そんなに似合わない?」
 私が思いっきりひがみ根性を込めて言うと、高崎くんの笑みは苦いものに変わる。なんだか嘲笑されているような気分になり、私は気に入らなかった。
「何もそんなこと言外に滲ませていませんよ。自分でおとしめないでくださいよ、川上さん。ただね、可愛いと思ったんですよ」
 さらりと春風のように何でもないことのように高崎くんは呟く。その間に、私のカフェオレと、自分にブラック無糖のオヤジ仕様を買っていた。
 一瞬、私は耳を疑った。
 可愛い? この私が?
 立ち食い串カツ屋で一杯飲むのが、アフターナインの唯一の楽しみな私が?
 まるで高崎君の薄い唇で耳にキスされたように、真っ赤になっていた。そこはパルスが近いから、私がどれほど興奮しているか、その速さで感じられる。
 私はぽかんと高崎くんを見ていると、手の中にカフェオレを乗せられた。
「どうぞ」
「あ、有り難う」
 高崎くんは相変わらずおかしそうにしている。こんなに笑った高崎くんを見たのは、初めてなのかもしれない。
 何だか新鮮だけれども、胸の奥がほんのりとくすぐったい。
 指が震えてしまい、プルトップを美味く開けられない。
 髪を揺らして悪戦苦闘していると、高崎くんが手を差し伸べてきた。流石は、フェミニスト。でも私はそれはいらない。
「開けましょうか?」
「いらない。いつも缶ビールのプルトップぐらい、自分で開けているもん」
「そうでした」
 高崎くんは笑うと、私から指を離す。
 部事だけれど、何てステキな指先をしているのかと思う。この指先で触れられたら、私は…。
 そこまで考えたところで、私は慌てて妄想を否定した。頭の中でもうひとりの自分が「バカ。バーカ」と囁いている。
 ------けれども。私の心の奥に住んでいる、子供のままの場所が、夢見るようにふわふわとしている。
 拙い。
 私はようやくカフェオレのプルトップを、ぜえぜえ言いながら開けると、一気に飲み干し、噎せた。
「大丈夫ですか !? 川上さん!!」
 あまりにも私が咳き込むものだから、高崎くんは驚いて背中をさすってくれる。
 背筋に、ぞくりとする甘い間隔が立ち上り、私を苦しくさせる。
 この大きな手で背中をさすられたら、どんなに気持ちが良いのだろうか。
 この手で抱きしめられたら、どんなに安心するのだろうか-----
 だが、今の私にはそんなことは許されないと、私は何とか踏みとどまる。
「有り難う、大丈夫だから」
「はい。ったく、川上さんは可愛いな…」
 ”可愛い”という言葉にわざとアクセントを付けられて、私は恥ずかしい思いをする。
 この私が可愛いだなんて、そんなことは天地がひっくりかえってもおこらない…と思う。
 私はこの後、何も言えずに、ちらちらと高崎君を見ることしかできなかった。
「さてと。そろそろ戻って、一仕事をしますか」
「そうね」
 高崎くんが豪快に伸びをしたので、私も同じように伸びをする。
 そう。ブレイクはここまで。
 私たちはまた、戦場へと出て行く。同志であり、ライバル。それが私たちの関係。好意はあっても恋心はいらない。
 そんなことを自分にきつく言い聞かせながら、私は背筋をしゃんと伸ばした。凜として、闘いに向かうのだ。
 私たちはまた来た廊下をオフィスに進む。
 そう、恋なんていらないの。
 けれど、私の女の子の部分が大きく抵抗をする。
 息が出来ないほどに純粋に、高崎くんを求めて泣いている。
 だけど告白して玉砕することは避けたい。仕事上でライバルであり、同志でいられなくなるのが怖いから。
 だから、私は恋心を押し殺すの。
 そんなものはいらない。
 楽しい時間の見納めに私は高崎くんの横顔を眺めた後、ぴしゃりと自分の中で恋心を切り捨てる。
 私は今日も偽りの仮面をかぶって、戦場に赴く-----