春の嵐だった。 窓を見つめていると、雫が伝っていた。昼間なのに薄暗く、蛍光灯を付けても点滅をして役に立たない。勉強を中断して伸びをすると、溜め息が零れた。 まるで雨は、私の気持ちをせせら笑うかのように、烈しく降り続く。これが、私の涙のようだなんて、死んでも思いたくない。だって、そう思ってしまえば、あのひとが、永遠に私を見てはくれないことを肯定するのと同じだからだ。 雨音にイライラして、私は唇と鼻の間にシャーペンを挟むと、椅子をぎったんばったんと、まるでシーソーみたいに前後に揺らした。 こんなところが、あのひとにとっては私が子供である所以なのかもしれない。 ちらりと教室で一番偉そうな顔をしている時計を眺める。もうすぐ5時だ。後1時間、自習と称して、この教室を借りているから、だらだらと出来る。 だらだらするのにも飽きてしまい、私は椅子にきちんと座り、机の上に野放図に広げた参考書やノートと格闘する。 それでもこの遣る瀬無いイライラ加減を沈めることが出来ない。 識ってしまったから。 あのひとが他の誰かのものになってしまうことを。 きっとそのひとよりも、私のほうがあのひとを識っている。髪をかき上げる癖も、笑うと目尻に何本皺が行くかも、識っている。きっと私ほど、あのひとを見ている人間はいないんじゃないかって思うぐらいに、私は識っている。 -----だけど。あのひとが選んだのはべつのひと。そしてそのひとは、私が識りたいかけがえのないあのひとを、深い場所で識っている。 そう考えると、シャーペンを持つ指に力が入った。ボキボキとあからさまな音を立てて、芯が何本も折れていく。 しょうがないもん。大好きなんだから。そんなことを開き直って想いながら、ノートに走り書く。 好き----- 言葉だけが視界の前で躍り、切なさの滲んだ甘い楽しさを運んでくる。あのひとの目を細めて、少年のように笑う顔が目に浮かんで、私もつい笑った。 不意に、ムードの欠片もない大雑把な音が聞こえるのと同時に、教室の戸が開いた。 「こんなところで何をやってるんだ?」 教室に緊張感を与えるように響く声は、私の予想通りのひとが発している。社会科の片桐先生。長めの前髪のせいで、いつも学年主任に目を付けられている。 「自習をするために借りたんですよ」 「ふうん。こんな蛍光灯じゃ、集中出来ねぇだろう。予価ったら、社会科準備室に来るか? あっちのほうが幾分かましだ」 片桐先生は眉間に皺を寄せて、うっとうしそうに蛍光灯を見ていた。眉間にはきっと深い皺が三本、綺麗な顔に刻まれている。 「世界史の勉強をしているけれど、いいです。もうちょっとしたら帰ろうと思っていたし。帰りに管理作業員のおじさんの所に行きますから」 私は何でもないように言いながら、好きと書いた文字を、ぐりぐりとシャーペンで塗りつぶしていた。 「そうか…」 先生の良く響くテノールが残念そうに響いたのは、きっと気のせい。だって、あなたにはもう、決まったひとがいるもの。どうか私に気を持たせないでください。 「それに、私は先生と違ってちびだから、あんまり蛍光灯のちかちかは気にならないみたい」 「そんなわけねぇだろ」 先生は 苦笑いをすると、また髪をかき上げる。その絶妙な間は、大人の男を感じさせた。クラスメイトにはない落ち着きを感じさせた。それなのに---- 「俺が買えてやるよ、蛍光灯。お前よりは身長はあるから」 「先生、いくら自慢の180だからって踏み台なかったらムリでしょ? これは、管理作業員のおじさんに、脚立に昇ってして貰った方が、効率的です」 「だったら、お前が踏み台になればいいじゃねぇか」 ニヤリと甘く笑った表情は、どこかやんちゃな少年を感じさせる。 大人な部分と少年の部分をバランス良く持ち合わせたこの人が、私は本当に大好きだった。…だったなんて過去形じゃない。今でも好き。 「先生の踏み台になったら、潰れて死んじゃうもん」 「だったら、お前が乗るか」 くつくつとからかうように笑う片桐先生は、一瞬、私が生徒であることを忘れさせる。いつも気安くて、だけど肝心の所ではいつも教師のスタンスを崩さないひとだ。 「スカートの中覗かないでくださいよ」 「あほか、就職難のなか教師になったのに、首になってたまるか、あほ」 「そうですよねえ。結婚、決まったし」 自分で口に出したのに、無性に泣きたくなってしまった。涙が溢れるのを、なんとか瞼の奥でせき止めて、私は誤魔化すように笑うしかない。本当は心からどくどくと血が溢れている。だけどそれを先生にいうわけにはいかなかった。 不意に立ち上がって、先生に並んでみる。 私は158センチ、先生は180センチ。この差が、私たちの埋めることが出来ない距離なのかもしれない。 「お前、港坂大学の史学科西洋史専攻の特別推薦、ほぼ決まりらしいな」 「先生のお陰です、有り難うございます」 「お前も俺の後輩になるのか。しっかり頑張れよ。良い大学だからな」 しみじみとまるで親のようにホッとしている片桐先生に、私は複雑な感情を抱く。 世界史を頑張ったのは、先生が担当だったからだよ。港坂の特別推薦だって、先生がそこの出身だったから選んだんだよ。先生がそこで生涯の恋を手に入れたと識っていたから。だから選ばれるように頑張ったんだよ。…きっとあなたには一生解らない、私だけが識る秘め事。 ふと、先生の横顔を眺めた。首筋あたりから大人を感じる。 「先生って幾つだっけ?」 「俺? 今年27歳」 一年生で出逢った頃、先生は24歳だった。まだ経験の浅い青い教師で、それ故に私たちの悩みもダイレクトで理解し、親身になって乗り切る方法を模索してくれた。視点が私たちと同じだった。だけど、結婚したら、経年を重ねたら、先生はステレオタイプの教師になってしまうのだろうか。 切ない気分でその横顔を見ると、片桐先生は複雑な表情で私を見る。まるで振り切られない何かを持っているような気がして、胸が痛んだ。 先生は「良く降るなあ」なんて、のんきなことを言いながら、無意識に右胸のポケットをまさぐる。きっと煙草探しているのだろう。私なら識ってる。ずっとあなたが何をしているのか見てきたから、あなたの無意識で直す癖を。 「先生、煙草はジャケットの左に直しているでしょう? ライターはジャケットの右に」 先生は、私の指摘通りにポケットを探り、お目当てのものを探し当てる。驚いたように私を見た。 「俺が解らねぇことを、お前がどうして解るんだよ」 「----それよりも、ここは禁煙ですからね、煙草は吸えません。教室だってことを忘れましたか?」 「そうだな…」 フッと先生は笑うと、窓の外を見た。 「だけど、どうして解るんだよ。お前が…」 「それは…」 雷が烈しくなる。 私たちがいる薄暗い教室を、稲光が照らす。 点滅した蛍光灯、烈しく灰色の旻を不気味に輝かせる黄色い稲光が、私たちをどこかに連れて行く。教室がまるで時間から隔離されたコンパートメントのような気分になった。 今なら、冗談で言っても許して貰えるかもしれない。 あなたが好き----ずっと、あなただけを見ていたから。 「----ずっと見ていたから、先生を…」 少し固い声になった。 掌まで汗を滲ませて、私は声を震わせる。背中に伝う冷たい汗は、沸騰した心を冷やしてしまうようだ。 先生は一瞬、本当に困ったように私を見た。 少し間を開けた後、ぱふりと私の頭に手を置く。 「お前は俺にとっては最高の生徒だよ。特別推薦試験、頑張れよ」 先生はそれだけを言うと、教室から出て行く。 明らかな拒絶。解っていたことなのに私は泣いた。声を殺して、誰にも解らないように。 明日はきっと晴れ。 私はきっといつものように、校門で、何もなかったかのように先生に挨拶をする。 |