*お帰りなさい*


 誰もがつい浮かれてしまう季節が終わりを告げようとしていた。春の残滓の光を浴びながら、私は、おにぎりを持って、近くの公園に出かけた。
 おにぎりはあのひとが大好きだったもの。野沢菜漬けをのりがわりに巻いたもの、おかか、梅干し。だし巻きを箸休めに作った。これでご機嫌なランチタイムを過ごせるに違いない。
 僅かに水分を孕んだ風は、雨の季節がもうすぐだと教えてくれる。
 あの人が好きだったケイト・ブッシュの「嵐が丘」を鼻歌にしながら、ご機嫌な光に笑みを零す。
 こんなに元気になったんだよ-----なんて、独りごちながら、私は、人生を謳歌するように闊歩する。
 そう、私はまだ25になったばかりだから、人生はまだまだこれからなのだ。これからは、ずっと笑って生きていく。
 もう、一生分泣いたから、泣くこともない。本当に、呼吸困難になって死んでしまうんじゃないかと思うぐらいに泣いた。文学作品の主人公みたいに佳人ではないから、私は泣いて、泣いて、泣きまくっても、死ななかった。死ねなかった。
 だから、あのひととの約束通りに陽気に暮らす。しぶとく生き残って、幸せになるのだ。
 そう、約束したから。手を握って。
 目を閉じれば、今でも思い出す。あのひとの膚にふれた最後の温もりを。優しいぐらいに柔らかくて、哀しいぐらいに冷たかったあの手。
 無くした頃は思い出しただけで泣いてしまったが、今は口角が上がるぐらいに、落ち着いていられる。
 あのひとと合唱しているかのように、「嵐が丘」を歌う。ケイト・ブッシュは声のトーンが高いから、歌い出しと、盛り上がるところが上手くいかない。私がマネをして歌ったら、あのひとはいつも腹を抱えて笑っていた。
 公園にたどり着くと、私は軽やかにベンチを目指した。ここは眺めが良くて、本当にとっておきの場所だと思う。今の季節だと薔薇が綺麗だ。私は「星の王子様」よろしく、薔薇に話しかけてみるのも好きだ。
 いつものベンチにゆっくりと腰を下ろすと、先ずは儀式のように大きく伸びをした。深呼吸をして、今日の新鮮な空気を吸い込む。
 新しい月日が始まる予感をさせる匂いがした。
 思わず眼を眇めそうになるぐらいの光に、これから過ごす月日に向かって視線を向ける。過去は悲しむためにあるのではない。自らを癒やすためにあるのだと、今なら解る。
 ひとは一度出逢ったら、逢えなくなってもそのひとを失わない。思い出せば、いつでもそのひとに会うことが出来るから。かこのあのひとが、私を癒やしてくれる。だから過去は大切な癒しの時間。それを教えてくれたのも、あのひとだ。
 本当に色々なことを教わった。
 有り難う。今なら素直に言える。お別れをしたときは、泣きすぎてお礼もろくに言えなかったけれど、今は一片の曇りもなく、雨の後の青空みたいな心で素直に言うことが出来る。
 有り難う-----
 あのひとが好きだったおにぎりを頬張りながら、私はしみじみとした想いを咬み含めていた。
 おにぎりをたべながら、風を感じる。温かな風は、まるであのひとが隣にいるような気分にさせてくれる。優しい気分になる。
 もう一度、人を愛せそうな気分にさせさせてくれた。
 不意に、清冽な風が私の心に吹き抜ける。
 心を駆け抜ける風は、本当にあのひとが私に向かって嬉しそうに走ってくる姿のようだった。
 いつしか、私たちのテーマ曲だったケイト・ブッシュの「嵐が丘」を口ずさんでいた相変わらず高音のところが難しくて、何度もくじけそうになってしまったが。
 誰かが私の前を通り過ぎたとき、聴いていたiPodの音が漏れてきた。懐かしくて感傷的なブリティッシュロックに、私は指先まで震える。
 信じられない。感情よりも間隔が先攻し、唇が戦慄く。
 偶然すぎるその曲は、確かにケイト・ブッシュの「嵐が丘」だった。
 ハッとして私が顔を上げると、見慣れない青年が目の前に立っている。
 年頃は私とおなじぐらい。
 濡れるような漆黒の髪が印象的なひと。
 初対面なのに、まるで私を知っているかのような表情で見ている。冷たさを感じるぐらいに整いすぎた顔には、感情が伴わない。なのに内側からの澄んだ美しさが、瞳の中から溢れ出している。
 どうして良いか解らず、私は無意識に笑いかけていた。間抜けにも歯形が付いたおにぎりを持って。
 すると彼もまたにっこりと笑いかけてくれる。
 先程まであった冷たさが霧散し、代わりに落差があるほどに澄んだ子供のような笑みを突きつけられる。
 笑顔があのひとと重なった。
 あのひとしか持っていなかった笑顔が、今蘇る。
 闇から突然光が満ちる世界に、躍り出た気分だった。
 ああ、神様-----
 あのひとはこんなに近くにいたのだ。
 理不尽な病であのひとを喪って半年----もう一度出会えるとは思わなかった。
 なのにこうして、忘れじの面影を私に見せてくれる。
 魂を揺さぶられる衝動に、私は目を細める。真っ直ぐ見られないほど、目の前の彼は眩しかった。
「ケイト・ブッシュがお好きなんですか?」
 骨までとろかすような声に、私はただ頷くだけ。
「僕も好きなんです。特にあなたが今歌っていた”嵐が丘”が」
「私も…」
「高音のとこ、難しいんですよね」
「そうね。難しいわね…」
 私たちはそれ以上の会話を出来なかった。
 お互いに個体としての温度や、強い何かに引かれて、ただ見つめ合っている。
 あのひとが、若い肉体を得て、私の元に戻ってきてくれたのだと、思わずにいられないほどに、彼はシンクロしていた。
 ここにいるのは紛れもなく、あのひとだ。
 わたしはあのひとを喪ってから初めて泣いた。
「おかえりなさい----」
 思わず出た言葉に、彼はあの人と同じ笑みで小さく頷いた。

「ねえ、もう一度恋をしようか? はじめから」