7〜戦前夜〜
「お先とやらの稚児だと思っていたが、やっぱり立派なおなごなのだな」 私を一瞥すると、若様は薄い笑みを浮かべる。それはからかうようにも、どこか愁いを帯びているようにも見えた。 「どういう意味ですかそれは」 「さあな…。あんな奇妙なをしていると…誰もが稚児しか思わないだろう…」 私がピリリと若様を睨み付けると、また素知らぬクールな表情に戻り、背中を向ける。 武道で鍛えられたのだろう、がっしりとした若様の背中を蹴り飛ばしたいと思いながら、私はしずしずと後に続く。 若様の背中からは、先程は感じられなかった緊張を感じた。息苦しいそれに影響をされたのか、言いようのない不安が胃の中に広がって、奥をきゅっと捻れてしまうような痛みを覚えた。私が顔を僅かに顰めると、お先は心配そうに低い声で囁いてくる。 「どうしたんだよ?」 「何でもないよ、何でもないんだ」 これ以上心配事を抱えて欲しくなくて、私が首を振ると、お先は私の指と自分の指をしっかりと結び合わせてきた。指先から迸る、温かな優しさに、私の緊張は消化されていく。 胸が痛くて息苦しい。なのに踊り出したくなるぐらいに高揚していた。 私はお先に甘えるように指先に力を入れると、真っ直ぐ前を見る。 そう、私はひとりじゃない。お先が傍にいるんだ。だから、浮き足立つ必要も何もないのだ。 何があっても美味く乗り越えられると自分に息貸せて、私は、通された広間に足を踏み入れた。 中に入ると、誰もが神妙な顔つきをしていた。それこそこの世の終わりだというような顔をしている者すらもいる。どの顔も暗く、深刻な事態を物語っていた。 「ふたりとも座ってくれ」 「はい」 正座は苦手だが、着物だから仕方がない。私は背筋を伸ばすと、しずしずと正座をしようとしたところで、裾を踏んでこけそうになった。このままだとぺたんこのカエルのようになってしまう。 「おいっ!」 流石は私をずっと見ているだけあってか、お先は素早く私の腕を取り、ぺたんと畳の上に座らせてくれた。 私が座ったところで、若様は咳払いをすると、部下たちを見回す。 深刻な雰囲気で肌がピリピリと痛くなってしまう。そもそもこんなに緊張感がなみなみと溢れている場所に、私とお先がいていいのだろうかとぼんやりと考えていた。 「…明日の夜に織田軍が攻めてくると、間男から報告があった。静姫と秋吉田家との婚礼を早めなければならない。秋吉田と結びつけば、織田軍も我が国に攻め入ってくることは難しくなろう。明日の早朝に国を出立すれば、昼過ぎには秋吉田城に到着が出来る。その準備を進めて欲しいのだ」 誰も若様に逆らうことなく、不安を隠してただ「御意」と頭を下げるだけだ。この先の運命を、もう、静姫の婚礼に託すしかないのだ。死んでしまった静姫の。 「おい、先とやら」 若様はゆっくりと近付くと、お先の前に跪いた。今まで不遜な雰囲気のある若様からは信じられない行為だ。 「俺は先て名前じゃない。コイツが勝手に呼んでいるだけだ」 「まあ、名前なんて、今はどうでもいい。お前は、静姫なのだからな…」 「お前の言葉を借りるとそう言うことになるな」 ふたりの会話は一見穏やかに見えて、まるでナイフの先端のような緊張が漲っている。傍にいる私は、切り刻まれそうな雰囲気にはらはらしていた。 ふと若様とお先に同時に視線を配られ、心臓がすくみ上がる。ぶつかる視線は炎を帯び、私はそれを消すことが出来ない。 突然の出来事だった。 若様はお先に剣を抜くと、そのまま斬り込もうとする。刃が私の髪を擦れて、心臓が止まってしまうのではないかと思うぐらいに、私は恐怖に覚えた。 若様の刃は空を斬ると、真っ直ぐ畳に突き刺さる。お先は素早く横に転がって回避をすると、すぐ近くにいたお侍さんの剣の鞘を握り、風のように巧みに抜いた。 間髪入れずに若様がお先に斬りかかり、刃と刃が激しくぶつかりあった。金属の無機質な音は、私を生きた心地にさせてはくれなかった。 お先が、武術を納めたであろう若様とまともにやり合うことが出来るなんて、想像も出来なかった。そもそも、馬術も剣術も、一体何処で習ったのかと思うほどに、お先は巧みだ。 お互いの力がぶつかり合ったまま、一進一退が続く。ただ見つめ合い、ふたりは互いの腹を探り合っているかのようだった。 不意に、ふたりはフッと笑うと、お互いに剣から力を抜く。私にも周りの人たちにも、一体何が起こったか解らなかった。 「----合格だ…」 ただ若様はそう言うと静かに剣を納め、お先も不敵に笑う。 「当然」 ふたりにしか解らない会話が交わされたような気がした。 私の心臓はといえば、まだ激しく暴れ回っていた。脇汗で着物はぐちゃぐちゃになってしまい、何だか気持ちが悪い。こんな良いんならいらない。喉はからからに乾くし、胃は暴れ回るぐらいに痛いし。ふたりはそれで満足かもしれないけれど、私にとっては散々な対峙だった。 お先は静かに私の元に戻ってくる。お先が座っていた場所をよく見ると、そこには斬り込まれた痕が深々と遺っていた。 「お先とやら、明日は静姫の身代わりで、早朝の花嫁行列に参加をしろ」 そんなものに参加しなくてもいいと私は目で合図をしたが、お先はもう覚悟を決めているようだった。私をちらりと見た後、クールな眼差しを若様に向ける。 「…解った」 「お先!!」 私がもう何を言っても無駄だと思うほどに、お先の決心は出来上がっていた。天変地異が起こっても変わりそうにないぐらいの硬い決意なのだろう。 「そなたなら、そう言うと思っていた」 若様は深く頷くと、安堵するかのように大きく深呼吸をした。 「散会する。先とうるさも部屋に戻れ。食事を用意させるから、それをしっかりと食べろ」 三々五々広間から出て行く人々を見送った後、お先は立ち上がる。自分が立つ段階になって、私は足がかなり痺れていることに気付いた。 「お、お先、あ、足、足が…」 痺れすぎていてもうどうして良いかが解らない。足を動かそうにも、どうすればいいのかと思案して泣きそうになってお先を見上げると、軽く舌打ちをされた。 「しょうがねぇな。これだからイマドキの若者は…」 「お先、それっておっさんの発言だよ」 「だからお前はうるさだっての!」 お先は綺麗な額に皺を寄せると、突然、私を乱暴に抱き上げた。 「あ、あの、ちょっと!?」 ふわりと躰が宙に舞い、私はどうして良いのか解らずに狼狽えた。痺れているにも拘わらず足をじたばたと動かし、後悔して涙を滲ませる。 「いいからおとなしくしておけ。メシを食う時は、足伸ばしておけ」 「う、うん…」 お先は若様に一瞥を投げた後、静かに部屋に戻っていく。たった一度しか通ったことのない経路をゆっくりと歩いていった。 まるで春盛りの雌猫のように私の心臓はなごなごと鳴いている。ときめいたり、緊張したり、不安になったり…。本当に忙しい私の心臓。私の耳に煩いぐらいに響く音は、年上に恋をしてドキドキしている男子中学生のようだ。 どうか、こんな純粋で忙しい心臓の音を、お先が聞いていませんように。 私は誤魔化すように口を開いた。 「ねえお先。どうしてお先は剣の使い方も立派だったの?」 「ああ。あれか? 大学時代、俺、剣道でそこそこ良い成績あげてたからな」 「馬術部なのに?」 「俺、学校の勉強より、サークル活動メインだったからなあ」 お先は懐かしそうに笑うと、どこか寂しそうだった。 食事も済み、私ははたと気付いた。 この部屋でお先とふたりで朝まで寝るのだろうか。緊急事態とはいえ、まだ嫁入り前の身としては、やはり構えてしまう。 「寝るぞ」 そんなに簡単に言われても、乙女としての心の準備が出来ていない。離れて寝具は用意されているものの、私は史上最大の緊張に、出目金よりも大きな目をして口をへの字に曲げた。 「何硬くなっているんだ。お前が寝ている間に屁をこいても、いびきかいても、歯ぎしりをしても、誰にも黙っておいてやるから安心しろ」 全くなんて男なのだろうか。デリカシーなんて言葉をお先に求めてはいけない。私は抱いていたむずむずとした妙な緊張から解き放たれると、寝具に転がり込んだ。 「明日は早いからな。とっとと寝てしまえ」 「うん」 お先の言葉がまるで子守歌のようになり、私はいつの間にかぐっすりと眠ってしまった。 |