忘れ潮を夢見て

3〜静姫〜


 何だかおもしろいような哀しいような複雑な気分になりながら、私はお先とお侍さんを交互に見る。お侍さんはお先を救世主のように見つめ、お先はボス犬が威嚇するかのようにお侍さんを見つめている。奇妙で吹き出しそうな風景に、戸惑いと滑稽を感じた。
「静姫ってお先に似ているんだって」
 私が小さな声で茶化すように言えば、お先の形相はまるで厳つい頑固職人のようになる。本当に怒っていることを、熱れで感じた。
「んなわけねぇだろ。俺はヤローだぜ。こんな厳つい女が何処にいるんだよ」
「お先より綺麗じゃない子は沢山いるわ」
「化けの皮が剥がれたとでも思ってるんじゃねぇのか?」
 化けの皮が剥がれたいうよりは、わざと纏っていた薄汚い蓑を外せばお姫様だったという勢いだ。王子様ではなく、お姫様というところが、みそなのかもしれない。
「本当に綺麗じゃない。、まるでお姫様みたいで」
「んなお世辞いらねぇ。この顔のせいで随分苦労したからな」
 お先は本気で溜め息を吐くと、頭痛がするのかこめかみを押さえた。
「あなた方は、静姫を識っておられるか?」
 思い詰めたような真摯な声が響き、私たちは姿勢を整える。お侍さんの声が、どこかせっぱ詰まっている。
「識ってるも何も、歴史上の…ふがふが」
 私が素直に自分が識っている事実を喋ろうとすると、お先に口を塞がれた。唇から漏れる妙ちきりんな声は、まるでアニメの主人公がピーナッツを咽に詰まらせたような声だ。
 滑稽だと思ういながらも、息苦しいと思いながらも、動悸が一気に速くなった。お先の掌があまりにも大きくて、誰かを護ることが出来る強さを持っていたから。私の意識に刷りこまれたお先の掌は、先生でもカメレオンでもなく、男のひとのそれだった。
「…とにかく、俺たちは、静姫を識っている。ややこしくて、今は説明出来ねぇが、そういうことだ」
 お先は言葉を選びながら、混乱している思考を整理するかのように言う。するとお侍さんは少しだけホッとしたように、肩を緊張から解放した。
「----では、静姫様についてお伝えしたいことがございます。このまま、私たちに付いてきてはくれませんか」
 いきなり付いてこいと言われても、ここがどこかは解らなし、しかも相手は識らない侍さん。お侍さんなんて、私たちの世界には存在しない。そう、架空の世界以外では。どう考えて良いかすら解らなくて、私は眉根を寄せた。
「なあ、一つ訊いていいか?」
 お先は視線を上げながら、気がないように呟く。
「何でありますか」
「今の年号は…」
「天正4年であります」
「天正4年ね…」
 お先は言葉を咬み含めるように言うと、腹を括ったようにお侍さんを見た。
「いいぜ、行こう」
 私がこんなに逡巡しているというのに、お先はあっさりと承諾する。大胆すぎる汚染の行動に、私は呆れを通り過ぎ、目をむくことしか出来ない。
「お、お先っ! 学校の先生から、識らないお侍さんに着いて言ったらダメだって、習わなかった?」
 私がいくら焦っていっても、お先はしらっとしている。いつものように唯我独尊ぶりを発揮している。お先と一緒に生き延びるのは、かなり危険なのかもしれない。
「俺はセンセイだからな。いいの」
 ニヤリと良くない笑みを突きつけ、いけしゃあしゃあと言ってのけるお先に、私は二の句を告げなかった。
「これはチャンスだ。俺が研究している、歴史の深い闇の事実を知ることが出来る」
 囁かれた言葉に、禍々しい不安が背中に立ち上ってくる。そんなことはあり得ないと理性では否定しながらも、どこかで私は肯定していた。
 ここは、私たちの時代じゃない----本当は解っていた。だがそれを否定しようと、様々なことを考えていただけだ。
「お先は…どう考えているの…」
 私は大きな熱い塊を飲み干すような気分で喉を大きく動かした。背中をぞくりとさせる冷たいものが流れ落ちる。
「俺たちは…」
 そこでお先は言葉を切る。お願い、そんなところで言葉を切らないで欲しい。その先は聴きたくない。耳を塞ぎたいなのに、塞ぐことが出来なくて、私は泣きそうだった。
「静姫の時代に迷い込んでしまった。つまり、時間を遡ってしまったってことだな…」
 お先のまるで冷たい鋼鉄のような声に、私は頷くしかない。本当は認めたくはなかったのに、認めるしかなかったのだ。
「そうだね…。時間の迷子になっちゃったのかも…」
 私たちがこそこそと話しているのを、お侍さんは少しイライラして聴いていた。その手綱の持ち方を見れば解った。
「----よろしいか。朱坂城に案内させていただく。私の後に付いてきて下され」
「はいよ」
 お先は手綱を握り治すと、馬の腹を軽く蹴り、先を走るように促した。先程荒れていた馬とは思えないほどに素直に、穏やかに馬は先を進んでいく。見上げると、笑ってしまうぐらいに綺麗な薄蒼い昊。キャンバスいっぱいに書き殴ったほどに鮮やかな色を持っている。
 何だか、泣きたくなった。
 小さな頃、デパートで親とはぐれてしまいエスカレーターの前で大泣きした時と同じぐらいに心細い。あの時も、この世の終わりのように思いながら泣いていたが、今もそれに近い。迷子は迷子でも、時間の迷子になってしまったのだから。
 だけど泣けなかった。目の前に広がる精悍な背中に、慰められていたから。
 躰がリズミカルに揺れるのを感じながら、私はお先の背中に強く抱きついた。こんなに強くて硬い背中は識らない。昔、父親の背中におぶられたときよりも安心しているくせに、妙に鼓動が弾んでいる。何か恐ろしいことから逃避するように背中に顔を埋めてみれば、余計に息苦しくなった。
 お先の匂いは、私が識っている男性の匂いとは異なっている。私の胸の奥を、今までに感じたことがないほどにかき乱していく。こんな甘さ識らないよ。こんな苦しいのに気持ちが良い感覚なんて、識らないよ。
 お先の背中に縋り付いただけだというのに、今まで識らなかった様々な感情が、ふつふつと沸き上がり、喉を詰まらせて咳き込んでしまった。
「おい、大丈夫かよ?」
「大丈夫だよ、大丈夫…」
 お先の柔らかな声が背中を通して優しく響く。涙が瞳に滲んだのを誤魔化すように、私は呟いた。
 暫く馬を走らせると、小さなお城が見えてきた。太陽の光よりも眩しい白壁に、私は目を眇める。目の前に聳える朱坂城は、私が識っている天守閣だけのものではなく、見る者を圧倒するほどの存在感を持っていた。鼓動が畏まったように大きく一度打ち付ける。引き締まった気分になり、私は背筋を伸ばした。
「ご開門を! 有坂吉右衛門である! 客人をお連れした!」
 お侍さんの声を合図に、仰々しく門が開き、私たちは城の中に招き入れられる。木の軋む音が、過酷な運命へのファンファーレのように聞こえていた。
「行くぞ」
「うん」
 この門を潜ればきっと渦から戻ることは出来ない。だが、私たちは潜らなければならないような気がした。
 馬から降り、私たちはお侍さんに導かれて、城の中へ足を踏み入れた。
「こちらへ。殿とご嫡男がお待ちです」
「はい」
 何だか大変なことに捲き込まれたような気がして、私とお先は顔を見合わせる。どうして、何処の誰かが解らない私たちに、城主自ら会おうとするのか。どす黒い暗雲を感じ、私は唇を震わせる。
 ちらりとお先を見ると、私を勇気づけるような深い眼差しを向けてくれる。落ち着けたような気がした。
 お侍さんが先を行く廊下は飽きるぐらいに長くて、私は思わず溜め息を吐く。お先は何も言わずに、ただ笑ってくれていた。
 こんなに広い建物の中を歩いたことはないとぼんやりと考えていると、ようやくお侍さんは歩みを止めた。
「どうぞ、こちらが控えの間です」
 お侍さんが畏まって腰を低くする者だから、私も思わず頭を下げてしまう。頭の中が整理出来ないまま、私たちは控えの間に腰を下ろした。
「しばし、お待ちを」
 お侍さんが部屋を辞した後、私たちは緊張から解き放たれるかのように大きく深呼吸をする。
「静姫に逢えるのかもな」
「静姫に?」
「ああ。ここは朱坂城で、天正17年だろ? 静姫が殉死した年だ」
 一瞬、息が出来なくなり、私はこのまま倒れてしまうのではないかと思った。それぐらいに、迷い込んだ時間は衝撃だ。
「----静姫ですか…。残念ながら妹にはお会いすることは出来ません」
 良く響く蒼い声に、私たちは顔を上げた。そこのは実直そうな若様が、哀しそうな眼差しをして立っている。
「静姫は去年亡くなったのです----」
 識っていた歴史が覆される。どうしようもなく心が震えると同時に、癒やされない痛みを感じた。

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