2〜伝説の中へ〜
目の前に広がる風景を、私は注意深く見据えた。鮮やかな緑に広がる雫からはくぐもった雨の匂いがし、空気には硝煙の匂いが混じっている。血なまぐさい嫌な風が、髪を揺らして気持ちが悪い。 ほこり臭い研究室から、雨がそぼ降るだだっ広い野原へ。頭が着いていかずに、私は疲労を覚えた。ここが何処なのかと考えるだけで、背筋が凍る。私は混乱する思考を動かすために、何度か浅い呼吸を繰り返し、落ち着かせようと努力する。 本当にここは何処なのだろうか。考える材料が少なすぎた。 神経質な蹄の音がかすかに耳に入ってくる。それよりも遠いところで、人々が怒涛のように鬼気迫る声を上げ、鉄が重なる無機質な音が甲高く響いていた。金属音は、時代劇に出てくる刀鍛冶にどこか似ている。 「ここは映画村とか…?」 今の状況で、私は思いつく考えを口にした。 「イキナリ太秦に飛ぶなんてことあるわけねぇ…っ!」 言いかけたところでお先は息を呑む。 「…馬だ…」 「え!?」 「おいっ! ぼやっとするなっ! 暴れ馬だっ!」 お先のナイフのような鋭い声に私は顔を上げると、眼前に栗毛の荒馬が孟スピードで駆けてくるのが見えた。馬の激しい啼き声を上げ、何かに怯えている。乱暴すぎる馬は興奮し、何度も身を捩りながら私たちに突進してきた。私は、鼻息が荒い馬にこのまま蹴り飛ばされてしまう恐怖に怯えた。 今更動いても助からない。絶望が口の中に苦い味をもたらした。 ここが何処なのか解らないままで、馬に蹴られて死んでしまうのだろうか。私は人の恋路なんて、邪魔していないというのに。今際の際でバカなことを考えるのは、きっと思考回路が上手く働いていないからだ。 馬の蹄が私の視界の中で大アップになった。万事休すだと、思い切り目を閉じた瞬間、躰がふわりと宙に浮かび上がった。 最初は、天国に行くためにふわりと舞い上がったのかと思った。きっと可愛い天使が私を天国に運んでくれているに違いないと。だが、感じる力は生々しかった。強い腕の力で護られている。この力に、私は総てを預けられるような安堵を感じていた。きっと大丈夫だという確信が広がり、心ごと総てを力に凭れさせる。すると自然と恐怖が躰からこぼれ落ちた。 不意に躰がリズミカルに浮き上がる。まるででこぼこ道を走る自転車に乗っているかのように。心と本当の目を開けて状況を確かめると、私は襲われたはずの暴れ馬に乗せられていた。 視界を流れる景色が新幹線の車窓よりも早く流れていく。それでも恐くなかった。私の躰を支えてくれる逞しい腕があったから。その腕を私は良く識っていて、本当は良く識らなかったと思った。 確信を込めて視線を上げると、ひん曲がった眼鏡を欝陶しいそうにしながら、お先が馬の手綱を握っていた。お先が暴れ馬を乗りこなせるなんて思いもよらなかった。しかも手綱捌きは堂に入っている。 駄目だ。まるで童話に出てくる騎士のようなお先を見せ付けられたら、ときめかずにはいられなくなる。しかも最上級のときめきだ。それこそ心臓が破裂する勢いの。 ズルイと思った。胸が痛くなるぐらいにときめかせるなんてお先は本当に狡い。甘いのに呼吸が出来ないほどの切迫した想いが、私の総てを支配した。 「…荒馬を乗りこなせるなんて知らなかった…」 私が呆然と言うと、お先はいつものように余裕のある憎たらしい笑みを僅かに浮かべる。 「じゃじゃ馬乗りこなしているからな」 「じゃじゃ馬ってまさか…」 「お前に決まってるだろう、うるさ」 にっかりとカメレオンのように鳥肌系の笑みを浮かべるお先を、私は睨み付けた。きっと他の女性となら、「気持ちが悪い」と言って逃げ出すだろうが、私は威張りくさる視線で睨み付けるのが好きだ。 「お先って、乗馬クラブでも入っていたの?」 「乗馬クラブは名ばかりの、競馬クラブなら入っていたけれどな」 「何よそれ」 「淀・中山観戦ツアーとかばっかしてたな。たまに園田とか大井とかも行ったっけ」 「アホくさ」 お先の腕に護られて馬上のひとになってからというもの、ここがどこだろうという不安は失念していた。この腕に護られていればなんとかなるという楽天的な思考が、私を支配する。まるで研究室にでもいるかのような気分で、言葉を重ねることが出来た。 「しっかし、この眼鏡邪魔だな…。捨てるか」 確かにお先のトレードマークである、今時ないような牛乳瓶底の眼鏡は、すっかり曲がってしまい、眼鏡としての役割を果たしてはいない。だがこれがないと汚染は困るだろう。このレンズの厚さから推測するに、きっとドがつく近眼なのだろうから。 「困るじゃないの? お先」 「困らない。これは鬱陶しい女除けだからな。ここにはお前しかいねぇから、平気だ」 鬱陶しい女よけというのは、あまりにも自分の容姿がカメレオンに近くて気持ち悪いからだろうか。きっと世にも恐ろしい面相に違いない。この私ですら気絶してしまいそうな。 ある意味背筋を凍るような妙な緊張が背中に走った。神様。この私の心臓が持つでしょうか? お先は乱暴に眼鏡を取ろうとする。ダメ。まだ心の準備が出来ていない。世にも恐ろしい形相を見るには、まだ私の心は決心は付いていない。 「----あ、あ、ああ〜!!」 私が突然大声を上げてしまったからか、馬も手綱を握るお先も動揺し、激しく前足が中に上がる。 「なんだよ、うるさ。驚かすなっ!」 お先はまるで心臓が止まるかのような勢いで言い、ムッと鼻を鳴らした。 「ごめん」 「…お前は、そんなに俺の素顔を見るのが嫌なのかよ」 「そ、そんなことは…」 完全にばれている。私は曖昧な笑みで誤魔化しながら、視線を明後日に向けた。 「まぁしょうがねぇよな。お前も一応は女だから、俺の素顔を見て、心臓発作を起こすかもしれねぇしな」 何やら自信ありげに鼻で笑うお先を蹴飛ばしたくなる。だがこれ以上、馬を刺激することは出来ない。お先が鎮めてくれたのだから。 「…心臓発作を起こすぐらいに凄い顔って事?」 私は本当に怖くて、まるで毛虫の顔でも見るような気分で呟いた。 「まあな」 だったらどんなに不便でも、そのぐちゃぐちゃフレームの眼鏡はかけていて。伊達眼鏡でも、私には立派な障壁だから。 「お前さ、何か勘違いしてんだろ?」 「何が?」 「その声を聞いていたら解る」 「解るって何を…」 ぼんやりとしているように見えて実は怜悧なお先には、私の考えていることなどきっとお見通しだろう。私がどうにかしてお先の眼鏡をかけたままでいさせようと思案していると、視界に馴染み深いものが飛んでいくのが見えた。 まさか、あの形は。め・が・ね。 私は怖いもの見たさと、元来の好奇心に負けてしまい、ゆっくりと視線をお先の顔に上げた。 視界に捕らえて一瞬、そこに誰がいるのか理解できなかった。ぽかんとどこかの阿呆のように、口を開けて見とれていた。確かにそこにいるのはお先の筈だ、そう、お先だ。私は自分に何度も言い聞かせるように心の中で呟いた。 水も滴る何とやらを地でいくように、お先は麗しかった。本当に精悍だとかそんな言葉は似合わない。ハンサムや男前といった言葉も遠い気がする。 男らしい容貌とは少し違い、誰が見ても美しい。本当に『麗しい』と言う言葉がよく似合う。本当に美貌のひとだと思った。 ハシバミ色の瞳を縁取る睫は長く、まるでこの世のものとは思えないほどの目元は、やはり男性のせいか少しきつさがある。まるで星を宿した王子様のようで、瞳はある意味女性よりも綺麗だ。甘さと知性が宿った顔は、綺麗意外に言いようがなく、私は溜め息を吐いていた。 「何だよ、そのバカ面」 蒼にも見える済んだ瞳に軽蔑が浮かぶ。それがまた似合うほどに冷たい美貌だった。 「お先、”クールビューティ”とか言われたり、男の襲われたりしなかった?」 「その腐女子思考は止めろ」 「何よ、それ」 「知らなくて良い」 お先はわざと咳払いをすると、美貌を歪める。そんな顔をしても、余計に綺麗な事実を強調するだけだ。 「………お……い…」 遠くから誰かが呼んでいる。私とお先はお互いに顔を合わせた。早馬を飛ばしているようで、蹄と供に声はかなり大きくなっている。 「そこの者! 暴れ馬を鎮めた者! どうか、どうか、止まって下され!」 何だか切迫した声に応えるかのように、お先は徐々に馬のスピードを落としていく。 「ど、どうするのよ!? もし、ヘンな追ってだったら!?」 「それはねぇだろ。あんなに切迫しているんだから名。何処にも殺気は感じられねぇし」 「そうだけれど…」 確かに殺気はない。それどころか懇願しているようにも聞こえた。 「止まって下され!」 息を弾ませるように言われ、お先は馬を静かに止めた。 「良かった!」 馬上の男は安心したように、私たちの前に回り込んでくる。』姿を現したのは実直そうな若い侍だ。どこのプロダクション所属の俳優だろうかと、ぼんやりと考えていると、驚いたようにこちらを見た。 「し、静姫様!!」 「静姫…!?」 お先の視線が険しくなり、私を保護するような目つきで見る。しかし、お侍さんは、私ではなく、じっとお先に視線を投げ掛けていた--- |