忘れ潮を夢見て

1〜静姫伝説〜


 今、私がいる地点が、時間の流れの最先端だとは限らない。これははっきりと言い切られる。
 私たちは『現代』なんていきがっているけれども、未来のひとから見れば、私が一千分の一秒に藻掻いていることがもう過去なのかもしれないし、過去の人から見れば、遠い未来の、それこそ想像出来ないほどに発達した世界なのかもしれない。
 今が、現在なのか、過去なのか、未来なのか。そんなこと誰にも解らない。要は自分の足でしっかりと歩いている時間の流れが、誰にでも「現代」なのだろうと思う。
 そう、誰だって、不自然に歪んだ時間の中にいる。かくいう私も----なんて物思いに耽ってみるのは、昨夜、感傷的なお先の論文を読んだからかもしれない。

 目が染みるぐらいに青く澄んだ青旻を、感動しながら眺めていると、分厚い本の角で頭を殴られた。本の角は、ものすごい凶器になる。それこそマンガみたいに、目から星が零れてしまうのではないかと思うぐらいに、痛い。今回の本はかなり鋭利な角を持っている。痛すぎて、目の奥がジンとした。
「ったい! 何するのよお先! 死んだらどうするのよ!」
 生徒を本で殴る。そんな暴挙が許されていいのだろうか。私は不気味な笑みを浮かべるお先を睨み付けた。
「本の角では死なん」
 いけしゃあしゃあと言ってのけるお先に益々はらわたが煮えくりかえる。だからお先には、なかなか生徒が寄りつかないのだ。いくら研究者として素晴らしくても、この性格が災いとしているのだ。
「たんこぶ出来たらお嫁に行けない〜! お先がキズものにした〜」
「お前を貰うヤツなんて、いねぇだろ」
「いるよっ! お先以外!」
「ったく、ここに来た以上は、働け、うるさ」
「バカお先!」
 毎日、私たちは喧嘩せずにはいられない。友人たちには、いつもじゃれ合っているだけだと言われるが、冗談ではないと思った。
 お先とは、葉山仁先生。巫山戯た歴史学者であり、うちの大学で日本史を教えるお馬鹿な講師。そのおたくかげんは、秋葉原に生息する本家本元が泣いて逃げ出すほどのす凄さだ。そんなお先の世話を焼いている私は、ある意味みんなから尊敬の眼差しで見られている。汚い上に意地悪ののだから当然だ。「よくまあ、あんなゲテモノと一緒にいられるね」などと言われたりする。
 確かに。私は奇特すぎる生徒だ。お先の世話もかいがいしくしている。お先は研究に熱中すれば、お風呂なんて何日も入らず悪臭を垂れ流しているし、髪はぼさぼさセルフバーバー、髭なんていつ剃ったのかしらと思うぐらいにぼーぼーだ。歴史学者のくせに白衣を着て、今時マンガにも出てこない瓶底まんまる眼鏡を書けている姿は、マッドサイエンティストそのものだ。影で「毒蛇カメレオン」と呼ばれているのも、平気のようだ。
 専攻は日本史。しかも戦国の歪んだ時代を研究している。歴史にロマンを感じながらも、普段はロマンの欠片もない研究をしている。それがお先の特質。だが、こだわって研究をしている、静姫伝説の論文だけは、ロマンス小説も逃げ出してしまうぐらいに、ロマンティック
 今日もお先の手伝いで、資料の整理をしている。どうしてこんなにお先に関わりたいのか、私には解らない。本当は薄々解っていても、その理由が恥ずかしくて、無意識の中に埋もれさせているのかもしれない。
 古くて厚い資料は、時代を感じさせる埃くささと、何だか偉そうぶっている感じがした。
「うるさ、そこに置いておいてくれ」
 お先は邪険に言いながら、私の名前をまたわざと間違える。悪意を感じずにはいられない。
「お先、私はうるさじゃなくて、しずかなんですけど」
 なるべく怒りを出さないように、私は冷静沈着を装う。声はいささかとげとげしくなった。
「お前に”しずか”はもったいねぇ。あの静姫と同じ名前を持つのに、お前は全くがさつで五月蝿くて正反対だから。だからうるさで充分」
「静姫おたくに言われたくないわよ。だいたいねお先はね、静姫を崇め過ぎなのよ。ひょっとして静姫さんだって、お先が言うほどにしとやかじゃなかったかもしれないじゃない」
「それはない!」
 自信たっぷりにピシリと言い切るお先は、まるで静姫の知り合いのようだ。
「だったら証明して頂戴よ」
「お前、俺の論文読んだだろ?」
「読んだけれど、あれにはお先の主観がたっぷり入っているじゃない。私は先入観のないものを読みたいわけ」
「あのなあ、静姫ほどの聖女はいないんだぜ?」
 静姫を神聖化して、庇うお先が気に入らない。私は勢いよくお先を振り仰ぐと、その胸にがしっと食らいつく。いつもその仕草をする度に、私の心臓はそれこそマラソンランナーのように駆け抜けていく。お先はずっと文系を歩いてきたくせに、何故か逞しい胸板を持っている。それこそ、ずっと鍛えていたかのような、まるで武人の胸だ。私が縋り付くぐらいでは、びくともしなかった。
「何だよ、うるさ」
 私が縋り付いても、お先はびくともしない。嫋やかな鞭のような体躯を持っているのだから当然だ。少し緊張している私を小馬鹿にするように、お先は薄く笑った。
「…解っているわよ、そんなことぐらい…。静姫は戦国時代のお姫様で、天正17年、1589年7月の闘いで、国と家族を護るために、生け贄として貼り付けになり、殺されたと…」
「その通り」
 良くできましたとばかりに、お先は私の頭を子供みたいに撫でる。子供扱いされたことに憤懣やるかたない気分になりながら、甘んじてそれを受ける。
「うるさ」
「しずか」
「まあ、どっちでもいい」
「良くないです。私には、杉浦しずかという立派な名前があります」
 何度言っても、お先は一旦こうと決めたら訊かないところがある。私の名前を”うるさ”とい呼ぶのもその一環。
「ところでな、今日、すげえスコープがあるんだぜ」
「スコープでなくて、スクープです。葉山先生」
「…とにかく。静姫によるものだろうと推測されるものが、本日、静姫のいた朱坂城の博物館からから貸し出された。そこの鎌倉彫の手文庫の中にある。手袋付けて触れ」
「え! 貴重じゃない! それを私にも見せてくれるの?」
 大学で歴史を専攻してから、初めて”ホンモノ”を間近に見る。私は興奮のあまり血液が逆流し、鼻息までが荒くなる始末だ。
「メロドラマ並の文章だからな」
「ホントに?」
「愛するひとへの別れの手紙のようだ…」
 しんみりとするお先を尻目に、私はいっぺんに気持ちが溢れてしまうような胸の痛さを感じた。
 お先が出してくれた手文庫に、震える手を伸ばしてみる。すると無情にも、汚染が手袋を差し出してきた。
「文化財だ。手袋をしろ」
「うん」
 百均で買ってきたんじゃないかと思う窮屈な手袋を震える手でした後、私は手文庫を開けた。底からは何か懐かしい香りがしてくるような気がして、私は思わずそれを吸い込む。何処までも清麗とした空気が漂っている。
 私は、この東寺には珍しく、はっきりと書かれた文字に視線を落とした。紙は経年で黄ばんでいたが、墨の色は、つい最近に書かれたのではないかと思うぐらいに綺麗だった。

 愛しいあなたへ。最後の手紙を綴ります。
 この手紙の意味をあなたが識るのは、ここからずっとずっと先なのでしょう。
 だけど、必ずあなたに伝わることは解っていますから、こうして筆を取ります。
 私は今、生きている中で一案冷静で、幸福なのかもしれません。
 ある意味、永遠の愛を手に入れることが出来たのですから。
 明日の朝、私は磔になります。
 もう何も言うことはありません。
 ただあなたに伝えたいだけ。
 好きです。
 そして有り難う。

 時空を越えた普遍的な愛情が言葉からひしひしと感じられ、私は泣きそうになった。肩を震わせると、お先は慌てて手文庫を避難させる。
「貴重な、貴重な、資料なんだからな! お前の汚い涙で汚させるかよ」
 何て失礼な男なのだろうか。生徒よりも文化財が大事だなんて、全く目眩をしてしまいそうになる。
「汚さないわよっ! ひとの感動をぶちこわしてっ! お先のあほ!」
 私が頬を膨らませて怒ると、お先は眉根を寄せて不機嫌そうに煙草を唇に押し込めた。
 いつもの何て事のない日常。
 だが、それを壊すように、時間がまるで切り取られてしまうかのように突然、烈しい揺れが私たちを襲った。
「しずかっ!!」
 鬼気迫る声で名前を呼ばれて、私は心臓が止まるかと思った。どうして良いか解らずおろおろしている私の手を、お先は強引に引っ張り、自分のの腕の中に閉じこめる。お先は私を護るように、頭ごとぎゅっと抱きしめてくれた。
 その間も、埃とコンクリートの破片が天井からばらばらと雪のように落ちてきて、上までびっしりと重い本が入った本棚が、今にも倒れてくる。
 まるでこの世の終わりだ。
 なのに私は、お先の逞しい腕や、鼻孔を擽る男らしい匂いにときめいてしまっていた。
 ここにいるのはいつもの毒蛇カメレオンなお先じゃない。男だ。それも経験豊かな男の人のように思えた。私の小さな女の子の部分が顔を出してくる。ほのかな恋心と、喪失感に泣きそうになった。
震えたくないのに、震えている炉、お先が更に強く抱きしめてきた。
「平気だ」
「うん…」
 本当は地震が怖いんじゃない。自分の気持ちが怖いから、お先が男過ぎたから、震えたのだ。
「しずかっ!」
 ぼんやりとしていたから気付かなかった。お先の声に振り仰げば、一番大きな本箱が、私たちの頭上に落ちてこようとしている。咄嗟にダメかと判断したのか、お先は私の頭ごと護るように、床に飛び込んだ。
 私は目を強くつぶり、一瞬、自分たちの躰が宙にふわりと浮かんだような気がした-----
 揺れが納まり、私はホッと溜め息を吐きながら顔を上げた。お先も同時に顔を上げたが、私たちはふたり揃って顔を見合わせる。
「…ここは、どこなんだよ…」
 そこは見知らぬ草原で、緑が瑞々しく、どこからか蝉の音が聞こえていた----

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