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新製品のプロモーションの基礎的な準備に追われて、気がついたら9時近かった。 榊くんの様子を見ると、まだ熱心にレポートをまとめている。 流石に一度は疲れるから帰るようにと促したが、榊くんは『一緒に軽く飲むという約束を果たして貰います』と言って、ここまで待っていてくれたのだ。 「榊君、終わったから、行こうか」 「はいでは、”正しいアフター5”の過ごし方を教えてください」 にっこりと砂糖菓子のように甘い笑みを浮かべる榊君に、私はほんの少しときめきながらも、それを悟られないよう冷たい笑みを演じた。 「オッケ。私より、おじさん連中の方が沢山知ってると思うけれどね。アフター5の穴場は」 「俺は、長谷川さんに先ずは教えて貰おうと思って。トレーナーだし、俺の」 「解った。じゃあ行こうか。私だって、おじさんたちと変わらないところに行くんだけれど」 私がくるりと榊君に背中を向けると、背後で男の余裕を滲ませたくすりとした笑い声が聞こえた。 「だから、長谷川さんに教えて貰うんです」 ロッカーに戻って自分のバックを手にしても、私は何故だか落ち着かなかった。 いつもなら、この瞬間に私はきつく締めていたねじを緩めるのだけれども、今日は、緩めることが出来なかった。 榊蓮----のせいで。 肩を過ぎたストレートの髪を留めていたバレッタを外し、私は鏡の前で何度か容姿をチェックした。全くばかげていると思う。ルージュを塗り直し、ほんのりと香るコロンを薄く付け直さずにはいられなかった。 以前なら、こんなにも念入りに身支度を直してから帰路につくなんてことはなかったのに。 こんなことをするのは、拓海と友達以上恋人未満だったあの時期だけかも知れない。遠い、遠い昔のお話。 鏡の前の自分を見て本当に溜息が出た。 もうあの頃とは違う。煌めくような若さもない。しかも榊蓮は私よりも9歳も年が離れているというのに、相手の方が恋愛対象になんてしないだろう。 きっとそんなことはお断りだろう。いくら何でも。 それに、今から行くのは、いつも通い慣れている、立ち飲み屋なのだ。煮込みと二度付け禁止の串カツに、生中、そしておにぎりを食べたらおしまいの、ロマンスの欠片もないところなのだ。 なのに----どうしてこんなにもときめいてしまうんだろうか。 私は思案を振り切るように背筋をキリリと延ばすと、榊君が待つ会社のエントランスへと向かった。 エントランスにいる榊君は、誰かにメールをしているようだった。十中八九彼女だろう。彼ほどの男が誰もいないだなんて到底想像できないから。 「長谷川さん!」 私の姿を見つけるなり、榊君は走ってやってきてくれた。その姿がまるで子犬のように見えて、私はくすりと笑ってしまう。 私の前に立つと、榊君はじっと値踏みをするように細部まで見つめてきた。 「髪を下ろしてると、とても若くて可愛く見えます」 一瞬私は惚けてしまい、口と目をだらしなくあんぐりと開ける。可愛い? この私が? そんなことはあり得ない。だって私の容姿なんて、本当に人並みだから。どこにでもいるありきたりだから。ありきたりじゃない素敵な榊君にそんなことを言われると、浮き足立ってしまうほどに緊張してしまう。 「い、行こうか。お腹空いてると、ろくな事を考えないからね」 私はドキドキする余りに何も応えることが出来なくて、わざと聞き流す大人の女のふりをした。 「そうですね」 横にいる榊君が魅力的に眩しく微笑むのが癪に障る。 内心ではその笑顔を無視できないくせに無視するふりをして、私は榊君の一歩先を歩いていった。 会社のビルを出ると、心地良い風が吹き抜けている。湿気も少なくて肌にも心地が良く、都会にしてはとても爽やかな風だ。私はその風を楽しむように、大きく腕を広げた。 「仕事の後に感じる風は気持ち良いですよね」 榊君は長めの前髪をかき上げながら、少年のように無邪気に笑っている。私を見つめてくれる瞳がとても温かかったから、こころの奥が甘く乱れた。 甘くときめくなんてとうに忘れたと思っていたのに、榊君がそれを思い出させてくれる。 だけどもう、あんな切ない想いをして傷つきたくない私が何処かにいて、ときめきを頑なに拒絶した。 「店はこの近くで、煮込みと串カツが美味しいお店なんだ。お洒落じゃないけれど、気に入ってる」 「楽しみです」 榊君の甘い声を背中に感じながら、私は店への道程をふわごこちで歩いていった。 「おじさん、こんばんは!」 「春乃ちゃん、いらっしゃい」 店の中は相変わらず仕事帰りのくたびれたおじさんサラリーマンと、おじさんの一歩手前のサラリーウーマンたちが賑やかに、時にはしんみりと仕事後の息抜きを楽しんでいる。 私は榊君をカウンターの奥に連れて行った。ここは立ち飲みだから、誰もが自然にスペースを空けてくれる。 「榊君、こっちだよ。メニューは壁に貼ってあるから好きなもの選んで」 榊君は店の雰囲気に少し押され気味で戸惑っているように見える。社会人になりたてだから当然だろう。 「長谷川さんは決められたんですか?」 「私? 私はいつも、煮込みと大阪風串カツ、で生中としらす玄米おにぎりに決めてるの」 「じゃあ俺もそれで」 榊君は迷うことなく言うと、私はおじさんに注文を通した。 「しかし春乃ちゃんが若い男の子連れとはねえ!」 「おじさん、彼は私の後輩で、今、私が研修しているんだ。だからこれも研修の一環だよ」 「そうか。おじさん、春乃ちゃんにも名前通りの”春”が来たと思って喜んだんだけれどねぇ」 「もう、五月蠅いよ、おじさん」 屈託なく笑顔でおじさんと話していると、榊君の温かな視線に気付いた。そんなにじっと見つめられたら、本当に勘違いをしてしまうから止めて欲しい。 「はいよっ! 春乃ちゃん! 仕事後の一杯!」 「有り難う、おじさんっ!」 生中ジョッキを目の前に置かれると最高にご機嫌な気分になる。これほど素敵な瞬間なんて、一日を探してもそんなにはないように思える。 私はジョッキを高らかに掲げると、横にいる榊君をちらりと見つめた。 「今日はお疲れさま! ビール飲んでリセットして明日もまたがんばろう!」 「はい、長谷川さん」 榊君が本当に良い顔をして笑うと、ビールのジョッキを掲げた。その姿がとても綺麗で絵になり、私は思わずじっと見つめてしまった。 「乾杯、長谷川さん」 「乾杯」 ジョッキを重ね合わせるなんて余りに色気がなさ過ぎるけれど、私は気持ち良く乾杯する。何故だか喉が無性に渇いていたから、私は一気に冷たいビールを飲み干した。 「あ〜美味しい!」 本当におやじ丸出しで満足の溜め息を大きく吐き出すと、榊君はくすりと私を見て笑う。 私を包み込むような優しい瞳。甘い微笑み。こんな風に笑われると、彼よりずっと年下の小さな女の子になったような気分になってしまう。これじゃあ、逆転だ。 「長谷川さん、口の周りに”美味しい印”が付いてますよ」 「え、あ、本当に?」 私が慌てて口の周りを腕で拭うと、榊君は更に優しい笑みで私を見つめてくれた。 「可愛いですね、長谷川さんは」 「え? あ、その、え」 そんなことうんと年下の男の子に言われた事なんてなかったから、私は余計に焦ってしまい、ドキドキとときめきが混じり合ってどうして良いか解らなくなっていた。 「あれ〜、お姉ちゃんにレンレン!」 元気いっぱいの妹の声に私は慌てて店の入り口に視線を送った。 「なっちゃん! それに多岐川さん!」 入り口には夏乃とその新人トレーナーである多岐川さんが店に入ってくるところだった。 「夏乃、お前も来たのかよ」 「そうだよ〜、来ちゃったもんね」 仲良さそうに話す榊君と夏乃の姿を見つめながら、何だか切なくなる。妹に会えて、多岐川さんに会えて嬉しいはずなのに、何故だか胸がチクリとした。 こころのどこかで夏乃が羨ましいと思いながら、寂しそうな笑みを無意識に浮かべてしまう。 私たちはふたりのスペースを空けるために、少し詰めた。榊君との間を空けて夏乃のそこに入るだろうと思っていたのに、榊君は私たちの間隔を余計に詰めてしまった。 結局、榊君、私、夏乃、多岐川さんの並びになってしまった。 「長谷川姉は、相変わらず同じメニューなんだな」 「多岐川さんに教えて貰いましたから」 「そうだったな」 多岐川さんは懐かしそうに言うと、私と同じものを注文する。それに夏乃も直ぐに続く。 多岐川さんは私の横にいる榊君の姿を、視界に捕らえた。 「君は榊君…と言ったかな? こっちの長谷川妹と同じ大学で、同じゼミだったかな? 確か」 「はい。そうです」 同じ大学だというのは知っていたけれど、まさか夏乃とゼミまで同じだとは知らなかった。ふたりの間には、私の識らない永い時間が流れているのだ。親しいのも当然だ。 また寂しい気分になり、夏乃を羨ましく思ってしまう自分が嫌で仕方がなかった。 「しかし、春乃ちゃんと多岐川さんが一緒にここに来るのは久しぶりだねえ。そっちの子は、春乃ちゃんの妹さんかい。綺麗だねえ」 おじさんはにこにこ笑いながら、私たち四人の組み合わせを見ている。 夏乃は本当に綺麗だ。その名前と同じように爽やかで涼しげな美しさを持っている。その上、姉の私よりも数倍はしっかりしているのだ。 「あれ? 多岐川さんに……春乃まで……」 かつて大好きで堪らなかった声が背中に響き渡る。振り返ると、そこには爽やかに笑う拓海が立っていた。 今夜は何てこころが騒ぐのだろうか----- |