13
榊君と何度も何度もキスをする。 一生分だと思うぐらいに、浅くて甘いキスを繰り返した。 榊君は私の身体をしっかりと支えて、何度も何度も羽根のようなキスをくれた。 幸せ過ぎてトランス状態になってしまう。 唇を離された後も、私はしばらくぼんやりとしていて、無意識に榊君を見上げた。すると、榊君は苦笑いを浮かべる。 「春乃さん、そんな瞳で見つめられたら、俺は困ってしまいますよ……」 「困るって?」 私は、榊君がどうして困るのかが解らなくて、思わずその瞳を覗き込んでしまった。 「もう、無防備だな……。俺がこんなに困っているのに……」 榊君は更に困ったような顔をしたかと思うと、目の周りを薄らと赤くして、私から視線を逸らした。 どうして目を逸らすのかが解らなくて、私のほうが困惑してしまう。恋に馴れていないから。『好きだ』と面と向かって言われたことなんてないから、私はどう反応して良いのかが解らなくて、ストレートに訊くしかなかった。 「こ、困らせてしまった?」 私が目を見開いて、逆に困惑しながら訊くと榊君は更に眉を優しく下げた。 「本当に、あなたは可愛い。俺よりも、いくつも年上とは思えない」 榊くんは本当に嬉しそうに笑いながら、私をからかうようでいて蜂蜜のように甘い眼差しで見つめてくる。本当にこのまま溺れてしまいたくなるほどの甘い眼差しに、私は鼓動を激しく昂ぶらせながらも、ここは年上としての威厳を見せなければならないだなんて、虚勢を張りたくなった。 「……これでも、榊君よりもずっと長く生きますから」 わざとすまして言ってみても、拗ねているようにしか聴こえないだろうし、何の役に立たないぐらいは解っているのに、つい、つい、虚勢を張らずにはいられない。 「関係あるのは今でしょ? 春乃さん……」 榊君は、男らしく、今まで生きてきた年月なんて関係がないとばかりに言うと、そのまま唇を近づけてくる。逃げられない。いや、逃げたくなんかない。 私は、そのまま、榊君の唇を受け入れる。 榊君の唇は、私の唇をしっとりと包みこむように口づけてくる。唇を先ほどよりも、もっと、もっと、強く吸い上げられたかと思うと、榊君は私の唇を舌でこじ開けてきた。 「……んっ……」 いとも簡単に榊君の舌の侵入を許してしまう。榊くんの舌は、私の口腔内を這いまわって、なぞってくる。上顎の部分を撫でられた時に、身体の芯が熱くなり、思わず背筋が震えた。 「……んん……」 まるで自分のものだとは思えないほどの甘い呻き声が漏れてしまう。すると、榊君の舌の動きは更に強くなる。 私の舌を自分の舌に絡ませてくる。 舌を絡ませるキスなんて、ハリウッド映画ぐらいの知識しかない。 榊君と私の唾液が、口の中で交わった。好きな人と混じり合うから、平気だった。それどころか、もっと、もっと交わってひとつになれば良いのにと思わずにいられない自分がいる。 全くいやらしい。だけど、いやらしくない。それが恋の情熱なのだと言うことを、私は初めて知った。 唾液が唇の周りについてべたべたしてくる。それを、榊君の唇が官能的にすくい取る。 全身が震える。 胸が甘さで痛くなるぐらいに満たされて、私の女としての感覚は煽られた。 キスをしながら、榊君も私も乱れてしまう。 紳士的に震える私の身体を支えてくれていた榊君の大きな手のひらが、突然、私のとりとめのない細いラインを弄り始めた。 「……んっ!」 意味深にボディラインをなぞられて、全身に切迫するような震えが走り抜ける。榊君の大きな手のひらが、小さな胸のふくらみをすくい取った瞬間、未知への不安から私は思わず身体を固くした。 すると、榊君は驚いたように、素早く身体を離した。 榊君は息を呑み、目を見開いたかと思うと、私を直接見ずに、項垂れるように目を伏せた。その姿を見ると、私は胸が痛くなる。 決して嫌ではなかった。ただ、未知なることへの不安が先走っただけだ。 それを言葉でどう表わせば良いのだろうか。 「あ、あのね、嫌じゃなかったんだ……、だ、だけど、私……、こんなこと初めてで……そ、その……」 本当に恋に恋する女の子みたいな言い訳をしてしまう。きっと、榊君はがっかりしたに違いない。私は嫌われたのではないかと思うと怖くて、そっと、榊君を見上げる。 こんなに卑屈になってしまうのは、恋に馴れていないからではすまされない。 きっと呆れるに決まっている。 恋になるとどうしてこんなにも自信がなくなるのだろうか----そんな自己嫌悪を抱いた瞬間、榊君に柔らかくふんわり抱きしめられた。 「本当に、春乃さんは可愛いな」 榊君の清潔でいて艶のある声が明るく響く。 「え?」 顔を上げると、榊君が総てを包み込むように微笑んでくれていた。 「仕事をしている時の春乃さんは、凛としていて、男から見てもカッコ良いのに、こうしていると、本当に、可愛い。そのギャップが俺は、好きでたまらないです」 榊君は優しい口調で語りかけると、私の唇に軽くキスをする。それが本当に泣きたくなるぐらいに甘くて、柔らかなキスだった。 「春乃さん、俺は、なるべく待ちますが……、そんなに長くは待てません……」 榊君は男らしく堂々と私に宣言してくる。本当に艶やかで、最高の男性だと思う。私なんかにはもったいないんじゃないかと、思ってしまう。彼には、もっと相応しい女性がいるのではないかと、思ってしまう。 「う、うん……」 「この話はここまで。今日は、デートしましょうか? 近所を散歩」 榊君はフッと微笑んで私を真っ直ぐ見つめる。屈託のない笑顔に、またときめきが止まらなくなる。 「う、うん。じゃあ、着替えたほうが良いかな」 ピンクのパーカーとジーンズなんて、榊君には釣り合わない気がして、妙に落ち着かなくなる。 「この格好でも良いですよ。充分可愛いです」 榊君は私を甘やかすように微笑むと、手をギュッと握りしめてくれた。 「俺、春乃さんと手を繋いでデートをするのが夢だったんです。だから手を繋いでデートをしましょう」 「わ、私だって……」 私だって、ずっと、大好きな人と手を繋いでデートをするのが夢だった。この年まで、それが叶うことはなかったけれど、私にとってはトクベツな甘い夢だったのだ。 「さあ、行きましょうか、デート」 「そうだね」 私と榊君はしっかりと手を繋ぐと、マンションから出て、近くをのんびりと散歩をすることにした。 陽射しがきつくなってきている。間もなく春から夏に向かう。私の季節から、夏乃の季節へとバトンタッチするのだ。 風も春の香りから夏の香りに変わってゆくのが解る。鎌倉ほどは敏感に感じられないけれど、横浜にいても、風の匂いで季節が解る。 私たちは本当に近所をぶらぶらと散歩しているだけだった。それでも本当に幸せで楽しい。本当に、一緒にいられるだけで、それだけで良かった。 「こうしているだけで、何だか幸せね」 私がのんびりと呟く。すると、榊君は私の手を更にギュッと握りしめた。 「俺もです。そんなに可愛いことばかりを言われると、本当に待てなくなる……。ね、春乃さん」 榊君は畏まると、私の目をじっと見つめる。真摯で誠実な瞳だった。 「俺、男だから、春乃さんが欲しいです。そんなに待てないから覚悟して」 榊君は焦燥と情熱が滲んだ艶やかな瞳で真っ直ぐ心を射抜くように見つめてくる。 私は、恋情にこの身を焼かれそうになった。 拒んだわけじゃない。 ただ、いきなりだから怖かっただけ。 でも、いつ、どうやって、榊君とそういう関係になって良いのかが私には解らなかった。こんなこと誰にも相談できない。結婚歴のある親友の芙蓉には特に。 私が悶々としていると、前から颯爽と憧れの橘さんがやってきた。 「あら、春乃ちゃん」 相変わらず美しい橘さんは、年齢よりもとても若々しく見える。私よりも10歳も上だなんて、到底信じられなかった。 「どうしたの? その顔だと恋の悩みかな?」 「え?」 ドキリとする。流石は橘さんだ。嘘はつけない。橘さんも既婚者だが、旦那さんは橘さんより年下だと伺ったことがある。 「あ、あの、気持ちは拒みたくないのに、拒んでしまった場合はどうするんですか?」 私は、まるで、小学生が教師に質問するように、いきなり訊いてしまった。橘さんは一瞬驚いたように目を見開いたが、直ぐに屈託なく笑った。 「----そうね。ごく自然に準備は出来るから安心して。大丈夫。しかるべき時に、本当に奇をてらうことなく、ごく自然にね……。だから、そんなにも思い悩まないで」 橘さんは、まるで妹を見るように私を見つめると、頬を何度か優しく撫でてくれた。 いつか、準備が出来る。 その言葉を、今は素直に聴くことが出来た。 |