「四季恋船」
この恋の総て〜春乃の場合〜

10


 榊君の腕の力は、到底、私には振り払えないほどのものだった。
 背中に密着する筋肉が温かくて、切ないほど力強くて。
 簡単に逃れられたとしても、私は逃げたなかったかもしれない。
 熱くて真っ直ぐな榊君の想いが、氷漬けだった私の恋する遺伝子を、ゆっくりと溶かしていく。
「…ずっとあなたが好きだった…。どうして良いか解らないぐらいに好きだ…!」
 掠れた声には、榊君の魂の熱さが乗り移っている。
 私は何も言えずに、ただじっとしていた。
 その熱さを受け入れるだけの準備が、私にはまだ出来てはいない。
「…春乃さん…」
 榊君は切ない声で私の名前を呼ぶと、ゆっくりと私の背中から離れた。
 とても熱くて心地よい温もりだったことを、離れて初めて気付いた。
「すみません。唐突にこんなことをして…。だけどこれが偽りない俺の気持ちですから。それだけは、覚えておいて下さい」
「榊君…」
 榊君は驚くほどに澄んだ瞳で私を見つめてくれている。なのに、私はそのまなざしをまともに見ることは出来なかった。
「…俺、帰ります」
「うん。今日は本当に有り難う。また…明日…」
「はい。また…明日…」
 私は明確な返事をしないまま榊君に背を向けると、慌ててマンションのエントランスに入る。
 本当に狡い女だ。
 何も返事をしてあげないなんて。榊君は勇気を振り絞って告白をしてくれたのに。
 エレベーターに乗ると噎せてしまい、私は思わず咳をした。
 まだ心臓が激しく鳴り響いている。
 私は呼吸することも上手く出来なくて、壁に凭れかかった。
 動揺しているはずなのに、こころは甘酸っぱいスウィーツを食べた後のように満たされている。
 誰かにこんなにストレートに「好き」だと伝えられたことはなかった。
 だからこそ嬉しいのに、戸惑ってしまうのかもしれない。
 自分だけのサンクチュアリである自宅に戻り、私は大きく深呼吸をした。
 猫が迎えに来てくれたが、不思議そうにこちらを見ている。
「何でもないんだよ。今日はシャワーを浴びてもう寝るね」
 まだ頭が告白惚けをしている。
 シャワーを浴びてサッパリすれば、またいつも通りになれるだろうか。
 私のなかにある成長しきれていない部分が一気に噴出してきそうで、怖かった。
 シャワーを浴びながらも考えるのは榊くんのことばかりだ。
 さっきの子供染みた態度で一気に嫌われてしまわないだろうか。
 そればかりを考えてしまっていた。
 嫌われてしまうのが怖い。まるで世間知らずの子供だ。
 私のなかに常にそれがあったからこそ、今まで恋愛に踏み込むことが出来なかった。
 それを崩せるか、崩せないか、私の行動にかかっているのに、いつも相手のせいにしてしまう。
 今回もまた同じことが起こるのではないかと、思わずにはいられなかった。
 きれいさっぱり忘れて寝てしまおうと思っても、なかなかそうはいかなかった。
 猫と一緒にベッドに入っても、榊くんのことばかりが気になってしまう。
 明日はきちんと挨拶が出来るだろうか。
 いつものように笑うことが出来るだろうか。
 そんなことをぐるぐると考えている間に、私はドキドキし過ぎて、浅くしか眠れなかった。
 変な声を上げたり、手足をジタバタさせたり。その滑稽な姿は、遠足前の子供そのものだった。

 出社した瞬間から、昨日の余韻なんて楽しむことが出来なくなった。
 神妙な顔をした上司にいきなり出くわしたから。
「工場が間違えて、セットにした状態で納入予定だった、マスカラと、マスカラとパンフレットを入れるバッグを、別々にしかもギリギリで納入してきたらしい。今すぐ、現場に行って準備をしてくれ。現地に多岐川もいるから」
 出社するなりトラブルを言い渡され、私は直ぐにイベント会場に向かうことにした。
 トラブルが起こり出すとドミノのように次々と起こるのはセオリーだ。
 廊下を早歩きしていると、榊くんとすれ違った。
「長谷川さん、どうされましたか?」
「またトラブルなの。現場に行かなきゃ」
「俺も行きます」
「一緒に行きましょう」
 私はまるで軍隊の出陣式のように、大股で歩いて行く。その後を、榊君が続いた。
 意識してしまうから、決して振り返らない。私は覚悟を決めて、唇をキリリと噛んだ。

 会場へは電車で向かった。満員電車の中だと、どことなく気まずくなる。
 他愛のないことを話そうとしても、ドキドキし過ぎて上手く立ち回れそうになかった。
 榊君をちらりと見ると、何もなかったようにクールな表情を崩さない。私よりも余程大人の反応だと、思わずにはいられなかった。
 不意に電車の急ブレーキがかかる。突然過ぎて私はこけそうになってしまい、榊君の胸のなかに飛び込む格好になってしまった。
 ふわりとコロンの香りが仄かにする。
 榊君のコロンはブルガリの爽やかなテイストのもの。職業柄コロンの香りは直ぐに言い当てることが出来る。他の男から香りはなんともないのに、榊君から香ると甘く苦しく胸がざわめく。彼の存在が、私に魔法をかけているのかも知れない。
 どきまぎしたまま、私は伏し目がちで榊君を見た。
「ご、ごめん…」
「大丈夫です。しっかりと捕まっていて下さい」
 榊君は腕のなかにすっぽりと私を入れてしまうと、電車が目的地に着くまで、守るようにしてくれていた。
 耳たぶまで真っ赤にしながら、私は俯くことしか出来ない。
 逞しい胸と腕。
 榊君の香り。
 総てが私の細胞を極限までヒートアップさせる。
 肌も唇も何もかもが震えてしまい、自分ではどうすることも出来なかった。
 目眩がする。
 久し振りの感覚に、背中に冷たいものが流れていく。
 こうしていて欲しいのか、そうでないかが全く解らなかった。
 電車を降りても、私のくらくらふらふらは治まりそうになく、よろよろと歩くことを余儀なくされた。
 あの腕の力強さがまだ肌に食い込んでいる。本当にどうして良いのか解らない。何かおかしな一言で榊君に嫌われたらどうしようだとか、そつなく対応出来ない自分に幻滅したらどうしようだとか。
 そんなことばかり考えては苦しくなってしまう。
 だから何もできない。本当にごめんなさいとこころのなかで謝るしか出来なかった。

 会場に着くと、マスカラの入った段ボールと、無造作に置かれた紙袋の山が置かれていた。それを見るだけで溜め息が出た。
 このことを見越していなかったから、セッティングのアルバイトたちを雇ってはいなかった。
 多岐川さんがこちらに現れると、私は頭を深々と下げた。
「すみません、直ぐにセッティングを行ないますっ!」
「頼んだ」
 別に怒るわけでもなく、多岐川さんはさらりといつものように私の横を歩いていく。いつも大きく受け止めてくれる男性だ。
 私は気持ちを整えるためにもう一度深く深呼吸をした。
「さあ始めようか。セッティングをしているうちに、アルバイトさんも来るだろうから」
「はい、解りました」
 スーツ姿であることも構わずに、榊君はマスカラを紙袋に入れる作業をしてくれる。
 私も自分がスーツ姿であることを忘れて、汗みずくになりながら作業に没頭した。
 ふたりで黙々と作業をするのは心地良い。まるで榊君と一体で作り上げているような気分になった。
 ふとお互いに視線が絡み合う。
 瞳にごく自然と笑みと、そして熱いものが浮かび上がっていた-----




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