1〜6歳の不遜1〜
激しい雨が降っていた。 美琴は小走りで自宅まで走る。今日の天気予報では、雨が降るとは言っていなかったから、傘なんて持っていなかった。持っているものといえば、竹刀だけだ。これでは傘の代わりにはならない。 美琴は思わず溜息を吐いた。折りたたみの傘を持ち歩くようなことはしない。面倒であるし、そもそも重いからだ。部活動に使う竹刀を持ち歩いているので、余分なものは持ちたくはなかった。 がさつに走るものだから、制服はすっかり跳ねた泥で汚れてしまっていた。全く憂鬱極まりない。 低く厚い雲が激しく光る。同時に凄まじい轟音が耳を劈いた。 「近いよね、急がないと」 最近の天気予報は全く当てにならない。日本もとうとう熱帯雨林気候になったのかと、恨み節を言いたくなる。 足元からか細い鳴き声が聞こえて、美琴は思わず視線を下げた。そこには、輝ける純白の毛並みを持つ、子猫がびしょぬれになって鳴いている。可愛い鳴き声を響かせ、雨に濡れて体が冷えたのか小さな体を、美琴の足にすりよせてくる。可愛くて、美琴は、思わず子猫を抱き上げた。 「どうしたの? お母さんにゃんこは?」 美琴が語りかけると、子猫は小首を傾げて不思議そうな顔をする。 「そうか、解らないか。お前をこのままひとりには出来ないから、とりあえずはうちに連れて帰るね。お前はびっくりするぐらいに綺麗だし、飼っても良いって言って貰えるよ」 目の前の子猫は、神秘的だと思うほどに美しい毛並みをしている。瞳の色は、今まで見たことのない、アメジストの色をしている。このまま誰の手にも渡したくないと思うほどの美しさだった。 美琴は一目で子猫に心を奪われてしまった。 「うちにいって、体乾かして、ご飯食べようね」 美琴が声を掛けると、子猫は不意に空を見上げ、まるで何かを見つけたように、大きくひと鳴きした。 鳴き声に釣られるようにして、美琴が空を見上げると、厚い雲に覆われている中、不思議と一か所だけが綺麗に穴が空いている。そこからは、輝く青空が覗いた。 不気味なほどに美しい青空に、美琴は思わず吸い寄せられそうになる。そこに吸い込まれたら、素晴らしい世界が広がっているのではないか。そんなことすら、考えた。 突然、黄金の光が真っ直ぐと目に飛び込んでくる。稲光だとすぐに悟った。 この子猫だけは護らなければならない。美琴は咄嗟に子猫を庇うように抱きしめた。 その瞬間、美琴のを総て焼き尽くすように、全身に大きな衝撃が走り抜け、体が大きく反りかえる。美琴は子猫を護るために、その小さな体をもう一度抱きしめようとした。 「……え?」 猫が逃げた気配や感触がないのに、猫が腕の中から消えていた。 戸惑っていると、身体が猛スピードで一気に青空の穴に吸い込まれていく。自分では何もできず、なされるがままだ。 身体にかかる圧力が厳しく、美琴は目を強くつむって、歯を食い縛った。鼓動が止まったのではないかと思うほどに、胸が一瞬痛くなり、呼吸が出来なくなった。 雷に打たれた衝撃が身体を貫いたのだろうか。ひょっとしたら死んでしまって、このまま天国に召されている最中なのだろうか。それにしては、感覚がとても生々しかった。 突如、衝撃が和らいだ。今度は身体が優しくふわふわと宙に浮き上がる。とても優しい感覚だった。優しさに導かれるように、美琴が目を開けると、見知らぬ森が見えた。そこはどこか懐かしい香りがし、美琴を包み込んでくれるような懐の深さがあった。 大丈夫だ。生きている。 美琴は自分が死んではいないことを確かめるように、身体に触れる。とてもリアルな感触だ。 今度はゆっくり、ゆっくり、身体が墜ちてゆく。だが、それが危険だとは、一瞬たりとも思わなかった。 堕ちれば、堕ちるほどに、瑞々しい緑の香りがする。とても清々しい。まるで自然のエレベーターにでも乗っている気分だ。 バレエを踊るように優雅に着地が出来、美琴はホッと胸を撫で下ろす。とても素敵な空中散歩を終えた気分だった。 着地をしたものの、空を見上げても、ここが何処なのか、全く分からなかった。空はすっきりと蒼く、どこにも厚い雨雲なんてない。 雷に打たれた衝撃で、どこかに飛ばされたのだろうか。だが、雷で人が飛ばされるなんて、そんなことは聞いたことがない。 手にあるのはなぜか竹刀だけ。そして。周りを見ても森しか見えない。 念のため、子猫がいるかどうか確かめたが、周りにはその気配すらなかった。 ここがどこであるかも見当がつかない。なのに、どこか懐かしいのはなぜだろうか。 いくら記憶をたどってもここがどこか解らない以上、このままここに居ても、埒が明かないと思い、美琴は竹刀を片手に歩くことにした。 美琴は気をとりなおして、一歩ずつ前に進む。どうしてこのようなところに飛ばされたかも分からない。ただ、今、出来ることは、歩くことだけだ。 「誰か、誰かいますか?」 近くに民家でもあれば、ここが何処なのかが分かるというのに。せめて人に逢えたら、何かが解るかもしれない。美琴は気付いて貰いたくて、何度も大きな声で呼び掛けた。だが、一向に反応はなかった。 「うわあああっ!」 子供の悲鳴が聞こえ、美琴は思わず、声が聞こえた前方に視線を向けた。 すると、小さな子供が、今にも獣に襲われそうになっている姿が見えた。子供は、純白にも見える銀の髪をしており、美琴は外国人の子供だと思った。子供らしく、猫耳のカチューシャをつけている。 そのうえ獣は、女子である美琴がどうこう出来ないほどに大きく、獰猛のように見えた。熊のようにも見えたが、見たことのないような獣にも見える。非日常の光景だ。 いきなりの危機に、美琴は夢ではないかと一瞬思った。だが、掌に滲む汗も、背中を伝う冷たい汗も総てが本物だ。 このまま捨て置かなければ、逆に自分がやられてしまう。美琴は逃げなければならないと、思った。だが、逃げられない。武道を志しているせいか、子供を捨てることへの罪悪感に、足が前に進まない。 あのような獣相手では竹刀なんて何の役にも立たない。だが、不意打ちをして、子供を連れて逃げることが出来るかもしれない。 美琴は、逡巡する。子供を助けられる確率にかけるのか。それとも確実に自分が助かるために、ここで見放すのか。 一瞬、子供が美琴を見た。その純粋で恐怖を滲ませた眼差しに捕えられ、美琴は決意する。この子供を捨ておくことは出来ない。 自分の剣道の腕を信じて、竹刀を握り締めると、美琴は子供がいる場所へと疾走する。 この子を助けなければならないと、本能で思った。そうしなければ、自分が生き残れないのではないかとも、思った。 子供は、美琴の姿を見るなり息を飲む。きっと、敵なのかとでも、思ったのだろう。 美琴は竹刀を抜くと、熊の化物のような獣に、一か八かでかかってゆく。剣道の腕には覚えがある。ただ、刀でなく、竹で出来た単純なものであるのが、残念だ。 面を取るために、美琴は大きく飛び上がり、獣を頭から思い切り叩いた。 試合では大将として闘っているから、竹刀を操る腕は自信がある。 ほんの刹那、時間を稼ぐだけで良いから、化物を怯ませたかった。 化物は唸るような雄叫びをあげて、怯む。今しかない。 「行くよ!」 美琴は、少年の手を握り締めると、咄嗟に走った。 勉強はそんなに得意ではないが、腕ぷしだけは自信がある。幼い頃から、ずっと野山を駆けぬけて、足腰は鍛えていた。少しぐらいでヘコたれることなんてない。 小さな手を握りしめながら、美琴は子供の走るスピードなど構わずに、跳ぶように走って行く。だが、不思議なことに、子供は同じようなスピードでついてきた。 後ろから地響きが聞こえ、身体が揺れる。先程の獣が追いかけてきているのが、分かった。 美琴はなんとか踏ん張って、走る。だが、相手は凄まじい化物だ。息遣いすら感じられる距離に詰めてきている。 このままだと、本当に殺られてしまう。しかもこちらは幼い子供もいるから、完全に不利だ。 足が痛くて、運ぶのにかなり重い。足が棒のようになるというのはこのようなことをいうのだろうか。 それでも命を助けるためには、走り続けるしかない。致命傷にならないためには、走るしかない。 走る間も、獣は、嫌な声を上げながら、追いかけてきた。 ダメだと思っては本当にそうなると、幼い頃に祖父に聞いたことがある。だから、今も大丈夫だと必死になって思った。 背中には嫌な汗が流れているし、手のひらと脇の下からは、余り質の良くない汗が滲んでいる。それでも走らなければならないのだ。止まると、本当に死んでしまうのだから。 足がもつれ、心臓が破れてしまうのではいかと錯覚してしまうぐらいに息遣いが荒くなる。 このままでは限界だ。浅い落とし穴とか、隠れる場所があれば良いのだが。 そう考えた瞬間、美琴の視界に盛り土が入ってきた。盛り土の向こう側に隠れてしまえば、獣をやり過ごせると思う。幸い、獣は興奮するあまりに、周りが見えていないようだ。 美琴は咄嗟に子供を抱えると、盛り土を一気に飛び越えた。 盛り土の下は急な斜面になっていて、美琴は子供と一緒に一気に転がり落ちていった。 子供が怪我をしたら可愛そうだ。美琴は咄嗟に子供を抱き締めた。 多少怪我をしても大丈夫な自負はあるが、子供はそうはいかないだろう。 息まく獣がドスドスと音を立てて走って通り過ぎてゆくのが、気配で解る。 助かったと思いながらも、美琴はこのまま気が抜けないと思い、息を顰めていた。転がり落ちるときに、身体を打ったからか、じんじんと痛みが走り、重かった。 しばらくは、ここでじっとしていなければならない。その後に、子供に、ここがどこかをきけば良いだろう。そうすれば、自分が今、どこにいるのかを確かめることが出来る。 腕の中で、子供がもぞもぞと動いた。猫耳のおもちゃが妙にリアルぴょこぴょこと動き、美琴は思わずくすりと笑った。 「さてと、もう、大丈夫だよ」 美琴は子供が怖がらないようにと、そっと声をかけて、その抱擁をゆっくりと解いた。するとアメジストの瞳が美琴を捕える。 見れば見るほど綺麗な子供だと、美琴は思った。こんなにも美しい子供に会ったことがないと思えるほどに。 「助かった。世話になった」 おおよそ子供らしくない言動に、美琴は目を丸くする。このように畏まった話し方をする子供なんて、時代劇に出てくる若君様でしか見たことはなかった。着ているのは、仕立ての良い着物と袴だ。羽織もよく似合っている。 美しく整った顔立ちはあどけないのに、その瞳は強い意志を秘めているようだった。 どこかで見たことのある姿形。美琴はハッとする。 「さっきの子猫!?」 美琴が思わず子供に指をさすと、子供はあからさまにムッとした表情をする。それがまた、コ憎たらしいくらいに可愛い。 「俺は子猫じゃない。猫の妖だ」 「あ・や・か・し?」 美琴は訳が分からなくて、子供の顔を見ながら、言葉を切るように言った。 「そうだ。俺は、妖の首領の三番目の息子だ。ひとりで母に会いに来たところで、兄の手の者に襲われたところを、お前に助けて貰った。礼を言う。いつもなら、このようなことはないのだが、どうも、母に会うために着たこの羽織が俺の力を封印していたからな。これを脱いでおけば良かった」 子供のくせになんて言葉遣いをするのだろうか。早熟すぎる。それに、本当に猫の妖なのだろうか。美琴は思わずその耳をじっと見つめた。 「この耳、本物?」 「失礼な女だな。本物だ」 声を聴くとまだまだ子供らしく、とても可愛い。本当にくすりと笑ってしまうぐらいに微笑ましい声だ。だが、話す内容は、大人顔負けだ。 美琴はじっと子供の猫耳を観察する。嘘を言っているようには思えないほど、少年の猫耳は精巧に出来ている。 「ねえ、そのお耳、さわっても良い? 後、おしっぽある?」 「面倒くさい女だ」 子供はあからさまに嫌そうな顔をすると、すくっと立ち上がった。立つと、ふかふかのしっぽが背後から見える。立派なしっぽに、美琴は思わずうっとりと見た。 「可愛いおしっぽだね」 「煩い。お前が恩人でなければ、俺はこの場で斬って捨てるところだ。無礼者」 子供の勢いに、美琴は思わず身体を引いた。小さくても尊厳が強い子供なのだ。やはり、妖の首領の子供というのは事実なのだろう。 「俺はもう行く。世話になったな。女」 「あ、うん。一人で大丈夫なの? 良かったら途中まで一緒に行くよ?」 「俺は一人でも大丈夫だ」 不遜な言い方をする以上、それなりに自信はあるのだろう。小さいのに自意識だけはてんこ盛りな子供に思えた。 「さっき、あんなに泣いていたのに?」 「妖封じの術を使われ、ただの人の子になっていた。この羽織を脱げば、俺の力は元に戻る」 子供は素早く羽織を脱いだ。すると、その姿が稲光のような光に包まれる。明らかに力を得ている。剣道や薙刀を嗜んでいる美琴には、すぐに分かった。 この子供は嘘を言ってはない。 本当に妖なのだ。 ただ、扮装しているだけだと思っていたのに、そうでなかったなんて。このようなことはアニメかライトノベルの世界でしかないと思っていた。 なのに、それがリアルに目の前にある。美琴は息を呑んだ。 「妖って……本当だったんだ」 「だから、そう言っている。これで俺は一人で帰れる」 これでこの子はひとりで帰ることが出来るだろう。美琴が手を貸さなくても良いのだ。 「だったら、最後に教えて。ここが、どこかを」 美琴の問いに、子供は眉を寄せた。信じられないといった表情だ。 「ここか? 将軍塚の近くだ。俺は、今から、六波羅の宮に戻るところだ」 将軍塚、六波羅。美琴の祖父母が暮らす京都にあるなじみ深い地名だ。 「京都!?」 「キョート? ここは京だ。似ているが違う」 美琴は益々混乱してくる。どこか違う場所に投げ出された気分でいっぱいになる。美琴は孤独感でいっぱいになり、これからどうして良いのか分からずに、思わず唇を咬んだ。 その様子を怜悧な子供は厳しく見ていた。 「お前、帰り方が分からないのか?」 美琴は素直に頷いた。これではさっきと立場が逆だ。美琴は足下を見つめるしかない、一気に気持ちが澱んできた。 「そうか。ここがどこかも検討はつかないのか?」 子供の声に、もう一度頷いた、美琴は子供が大人で、自分が子供になった気分だった。何とも心許なくて、不安だ。落ち着かない。 美琴が心から困っていることを察したからか、子供は深い溜め息を吐いた。小さな子供だというのに、仕草がいちいち大人のそれだった。 逆に子供がこんなにも老成してしまうのがかわいそうにも思えてくる。子供は子供らしくが良いのにと思う。美琴自身もまだまだ子供であるが、それでもこの子供に比べると大人に近い。だからこそ、不憫に思ってしまうのだ。 子供への不憫さと、自分自身も途方に暮れているせいか、美琴は泣きそうになった。子供は、美琴の瞳を見て、もう一度盛大に溜め息を吐いた。 「分かった。とりあえずは、俺の宮がある六波羅まで向かおう。そこで少し休んで考えればよい。お前を用心棒に雇うのも悪くはない」 子供に思えない言動の数々に、美琴はただ目を丸くするしかなかったが、ここはこの子供に頼るしかない。自分が迷子なのだ。美琴は腹をくくると、子供を真っ直ぐ見た。 「うん。じゃあ、私を君の宮に連れていって貰って良いかな?」 「分かった。それと、俺の名前は那智だ。これからは、那智様と呼べ」 「へ?」 子供は鋭い眼光を美琴に向けると、そのまますたすたと歩き出す。俺様気質なのは、やはり妖の首領の子供だからだろう。 「ちょっと、待ってよ! 那智君!」 「那智様だ」 だめ出しすることを忘れずに、子猫の妖はかなりの速度で歩いてゆく。美琴はその速度について行くのが精一杯だった。猫は、ひとよりも早く走ることが出来ると聞いたことがあるが、まさに那智はそうなのだろう。 「お前、名前は何だ」 「美琴」 「美琴か」 まるで自分の下僕のように言う子猫の妖が憎たらしくなる。だが、ふわふわのしっぽが揺れるのが見えて、ほんの少しだけ可愛いと思えた。 静かな森を、ひとの子供と同じ姿をした子猫の妖と一緒に歩くなんて、全く妙な気分だ。那智は子猫の妖のくせに、背筋が綺麗に伸びており、佇まいも美しかった。育ちの良い、不遜な若君にしか見えない。しっぽと猫耳さえなければ。 「おい、美琴」 那智は歩みを止めると、ゆっくりと振り返った。 「お前は、人の子か?」 「そうだよ」 「俺が見たことのないような、奇妙な着物を身につけているが」 那智は眼をスッと細めながら、改めて美琴の姿を見る。ただ子供に見られているだけなのに、なんだか落ち着かない気分だった。年上の男に見られているような気分になる。 「これ? これはね、高校の制服だよ?」 「コーコー、セイフク?」 那智は訳が分からないと、美琴の言葉を繰り返す。先ほどとは逆だった。 「高校や制服が分からないの?」 「分からん」 「妖の世界にはないんだろうねえ。そんな話聞いたことはないし」 「人の子の世界でも、コーコーやセイフクなんて話、聴いたことがないぞ」 那智は腕を組んで、怪訝そうに美琴を見据えた。 「え?」 「俺の母は人だ。だから、人の子の世界は、精通しているつもりだ。そんなもの聞いたことはない」 那智が随分とキッパリ言い切るものだから、美琴は、ひょっとしてここが、自分が生きてきた世界とは違う世界なのではないかと、疑念を持つ。 そもそも、美琴の世界では妖なるものは、見たこともないし、物語の中で出てくるものとばかり思っていた。だが、目の前にいる子供は、確かに子猫の妖には違いがない。 自分が知らない世界に迷い込んでしまうなんて、想像すらしたことがなかった。目の前にいる、妖の美少年を見つめると、真実味が更に増した。 「ねえ、ここはどこなの? 多分、私が住んでいた世界とは違うよ」 美琴は不安で声を揺らしながら那智に訊くと、那智は一瞬目を伏せた。 「やはり、お前はこの世界のものではないか……。だが、人の子であるのは確かなようだがな」 それは間違いないと思い、美琴は頷いた。人間という種は、この世界も美琴が生まれた世界も変わりがないと思った。 「ここは、人の子、妖が支配をする国だ。人の子は昼の世界を、妖は夜の世界を支配する」 「何だか、昔話を聞いているみたいだよ」 「昔話?」 「うん。夜中に百鬼夜行が都大路を走るとか」 「夜は、我ら妖がその時間の往来は活発になる。それを見た人の子が、百鬼夜行などと言っておるのだろう」 「何だか大昔にタイムスリップしたような気分だよ」 美琴はすっかり諦めの気分で溜息を吐いた。タイムスリップならば、どうしたら自分の世界に戻れるのだろうか。同じ状況で戻れるのであれば、大雨で、かつ雷が鳴る日に外に出るしかない。 「たいむすりっぷ? なんだそれは?」 「未来から過去に来てしまうことだよ」 「お前は未来の人の子か!?」 那智は初めて子供らしく、大きな目を見開いて、口を大きく開けて驚いた。アメジストのような瞳は、好奇心で輝いている。 「それは面妖で面白い! だから、そのような奇妙な着物を着ておるのか」 「そうだと思うんだけれど。良く解らないよ」 「こちらでは女子が剣を持つのは考えられぬが、未来は、女子も剣を持つのか!?」 「まあ、私みたいに、剣道やってる女子は少ないと思うけれどね」 矢継ぎ早に好奇心たっぷりに質問してくる那智を見ていると、やはり子供らしいと思う。子供は好奇心たっぷりで、瞳が輝いているのが断然良い。美琴は、那智を見て更に強く思った。 大人びた態度を取るのは、ひょっとして、那智が、背伸びをしなければならない状況にあるのではないだろうか。そう思うと、心が痛んだ。 「那智君、君はいくつなの?」 「俺か。どうしてそんなことをお前に言わなければならぬ」 那智は自分の年齢など言いたくないと、大人ぶって言い返す。だが、唇を尖らせて拗ねる姿は、どこから見ても子供そのものだった。 「凄く大人にふるまう時と、凄く子供に見えるときがあるからだよ」 美琴は膝を少し折り曲げて、那智と視線を合わせた。こうすると、やはり子供らしい体つきなのだ。 「お、お前は、いくつなんだ」 「私? 十七歳。高校二年生だよ」 「じゅうななさい……。オバハンか……」 しらっと言う那智に、美琴は目を剥いた。 「ちょっと! 十七歳のどこが、オバハンなのよっ!?」 美琴は思わず声を荒げて、那智を睨みつける。こちらはピチピチだと思っているのに、この子猫の妖ときたら、いきなり憎たらしいことを言う。つい、感情的になった。 「だったら、那智君はいくつなの!?」 「人の子の年齢で言うと……六歳……」 だんだん声が小さくなるのは、那智がそれだけ自信がないと言うことなのだろう。 「ええ!? 六つなの!」 六歳と聞いて、驚いたのは美琴だった。六歳なのにしっかりし過ぎている。美琴も長女なので、普通の六歳よりもしっかりしてはいたが、それでもこんなに大人ではなかった。それどころか、洟たれの上、ぼんやりしていることが多かった。ただ、剣道をしていたので、同年代の子供の中で、誰よりも強かったが。 「六つって! 本当に幼子じゃない!」 「だから、嫌だったのだ! 六歳でも、俺は立派な大人だ!」 照れ隠しにむきになるところなど、やはり子供らしい。このような子供らしいところが残っていて、美琴は逆に嬉しかった。 「嬉しいよ。那智君がさ、子供らしい子供で」 「子ども扱いされても困る! 俺は立派な、猫の妖なのだ!」 猫耳をみょんみょんさせて怒る姿が可愛くて、つい笑ってしまう。可愛さが先行するところは、まだまだ大人になりきれていない証拠なのだろう。 「行くぞ! 早く宮に戻らなければならぬからな」 「はい、はい。那智君」 くすりと笑いながら、美琴は那智の後ろを再び着いて行った。 「お前は、俺がいないと何も出来ぬ異界の者であることを、肝に銘じておけ。俺に逆らうなよ」 笑われたことがよほど悔しかったからか、那智はつっけんどんに言う。 那智に言われて、美琴は改めて、自分がここでは一人ぼっちなのだと痛感した。 しかし、笑えてしまうぐらいに、寂しくはなかった。きっと、目の前にいる、子猫の妖が一緒だからだ。そのせいか、絶望だとか、そんな気分にはならなかった。 「那智君のお蔭でさ、私、寂しくないよ、今のところは。こんなところに飛ばされて、面食らったのは確かだけど、那智君がいるから、今のところ大丈夫だよ。有難う」 那智がふと歩みを止め、美琴に振り返った。 「本当か?」 「本当だよ。だって、ここで知り合いなのは、那智君だけだから」 「そ、そうか……」 那智は美琴に近づいてくると、美琴の目の前で立ち上がり、見上げた。 「ほら、一緒に行こう。俺がついていると安心だろう?」 純粋なアメジストの瞳で、那智は無邪気な優しさを滲ませてくる。抱きしめたくなるほどの、いじらしい可愛らしさに、美琴は胸がキュンと甘く高まる。 那智は美琴に手を差し伸べて、繋ごうと誘ってくれている。妖だが、まだまだ子供のせいか、とても小さな手だ。その手を握り締めれば、このまま壊してしまいそうなそんな柔らかさに、美琴は思えた。美琴はそっと、ガラス細工を手に取るような気持ちで、那智の手を握り締めた。 ふわり、優しく握りしめると、なんて温かいのだろうかと思う。ふわふわしていて、とても素敵な手の優しさだ。心まで温かくなった。 「肉球ないんだね」 「猫じゃない」 「猫の肉球ぷにっとしていて、大好きだけれど」 「だから、俺はただの猫ではないのだ」 「解ってるよ」 那智と手を繋いでいると、不思議と優しい気持ちになれる。心が温まり、美琴はホッとした気持ちになった。 異世界に飛ばされたらしいのに、こんなにも落ち付いていられるのは、きっと隣にいる、小さな子猫の妖のお蔭なのだろう。 二人で手を繋いで、ゆっくりと歩いて行った。 |