*教師の特権*


 廊下を横切る明るい影で、誰が通ったかが直ぐに解った。このバカ過ぎるセンサーに反応するのは、目下ひとりだけ。それも教え子だなんて、全くセンサーの感度も悪くなったらしい。
 途端に、まるで無駄盛りの中学生になったような気分になり、心臓が跳ね上がる。
 落ち着けと、良い年だろうと、何度も自らを言い聞かせるのに、少しも効きやしなかった。
 煙草を小道具に、ひょいと数学準備室から顔を出す。
「おい、崎間!」
 声をかけると、伸ばし賭けの髪を揺らしながら、まるでダンスをするように振り返った。
 途端に、陽射しがスポットライトになり、崎間雪乃を照らしている。売れない時代遅れの少女マンガのようにきらきらしていて、思わず眼を眇めた。
「何ですか? 一ノ瀬先生」
 いつものようにくるりと大きな瞳を光らせてこちらを見てくる。黒目がちの瞳は穢れを知らないように光っている。まるでこちらのこころを総て見透かすように見つめてくる者だから、思わず明後日方向に視線を逸らした。
 こんな想いは許される筈などないのに、暴走が止められはしない。
 自分もただの男だということを、崎間雪乃を見る度に、思い知らされるような気がした。
「三年の遠足のしおり作りの作業を手伝ってくれねぇか」
「しおり作りですか? 先生がおやつ奢ってくれるなら、やっても良いですよ。後、作業中は煙草を吸わなかったら」
 ニヤニヤ笑う崎間の頭を軽く叩いてやる。
 これぐらいのコミュニケーションは、二年間同じ部の顧問と部員だから出来ることだ。
「陸部のエース殿は厳しいな。まあ、菓子ぐらいはやるが」
「ちゃんとおやつ下さいよ」
 くすくす笑いながら、崎間雪乃は数学準備室に入ると、一番陽があたる窓際の席に腰を下ろした。
「いつ来てもここは良いですね。トラックが見えて、その向こうに湘南の海が見えるなんて、眺めが最高です。もうすぐ引退なんですよねえ、寂しいなあ」
 ぽつりとノスタルジックに呟きながら、崎間雪乃は窓の外を眺めた。その瞳は、どこか哀愁が漂っている。横顔が、とても大人びて見え、一ノ瀬は心臓が締め付けられるほどにドキリとした。
 とてつもなく綺麗だ。
 意志が強そうに見えて、脆い影を持つ大きな瞳。部活動で灼けた浅黒い肌。どれもが、瑞々しい美しさを放っていた。
 横顔だけで、こんなにこころを動かされるなんて、全くどうかしている。しかも相手は生徒だというのに。10歳も年下の。頭が沸いているとしか言いようがないと思った。
 なのに。この横顔を独占してしまいたいと、思わずにはいられなくなる。
 こうして貴重な時間を、自分だけのものにして閉じこめたいと想ってしまっている。
 いつかは離れてしまう、いつかは自分の手の届かないところに行ってしまう相手なのは解っているのに。
 だからこそ、手が届くまでの間に、こうして同じ時間をシェアしたいのかもしれない。
 不意に目が合う。
 視線が絡むのは、百分の一秒もないのかもしれない。
 なのにとても貴重でかけがえのない時間のように思えた。
「おら、ぼんやりしてねぇで、手を動かせよ」
「先生こそ!」
 陸上部のトラック長らしく、きっぱりと言い切ると、しゃかしゃかと手を動かし始めた。
 真面目に仕事をするし、手も早い。その割には、雑だ。
「お前、雑すぎ」
 一ノ瀬は適当に手を動かしながらも、崎間雪乃よりも綺麗にしおりを作り上げる。
「私なんかに頼むからですよ〜だ」
「文句言いながらでも手伝ってくれるのは、崎間ぐらいだからなあ」
 一ノ瀬がのんびりというと、崎間雪乃はほんの一瞬手を止めた。珍しく、こちらを見つめずに、まるで地震のない女の子のように俯いている。
「…先生のファンは多いですよ。私なんかが手伝わなくたって、いくらでも手伝ってくれるひとはいますよ」
 声が僅かに震えて、ほんのり春風のように鳴ったのは気のせいだろうか。
「そんなことねぇだろ」
 ちらりと一ノ瀬を見た崎間雪乃の瞳は、心許ない乙女のそれそのもので、全身に華やかな緊張が走り抜けた。
 余りに甘い感覚に落ち着かなくなり、想わず立ち上がった。
「直ぐに戻るから、お前はせっせとやっとけよ」
「あ、先生! 狡い!」
 非難する崎間雪乃の声を尻目に、数学準備室から出た。
 窒息しそうだった。
 窒息しそうなほどに、誰かのことを想うなんて純情は、今までなかったかもしれない。
 正直、男女の行為なしでここまで誰かを慕うことが出来るなんて、想っても見なかった。
 一ノ瀬は酸素を補給するかのように大きく深呼吸をすると、ゆっくりと購買に向かう。
 約束した以上、何か甘いものを買ってやらなければなるまい。
 甘いもの。
 きっと、崎間雪乃が与えてくれる感情以上に甘いものなんて、この世の中に存在しない。
 一ノ瀬は、崎間雪乃がおやつと称してはいつも食べている、甘いカスタードクリームの菓子パンとイチゴ牛乳をいくつか買い、数学準備室に戻った。
「しっかりやってるか」
「先生、これは先生の仕事ですからね!」
 出来上がったしおりの山を乱暴に机の上に置くと、崎間雪乃は怒ったように一ノ瀬を見上げる。だが、どこか華やかな色が瞳には漂っていた。
「有り難うな。これはお礼だ」
 一ノ瀬が乱暴に甘ったるい菓子パンとイチゴ牛乳を差し出すと、途端に、小さな子供のように純粋で明るい笑顔が、崎間雪乃の表情を彩った。
「有り難う!先生!」
 無邪気で、太陽よりも明るい笑顔を目の当たりにして、一ノ瀬は抱きしめたくなった。
 折れてしまうほどに強く抱きしめたい。
 だが、今は出来ない。
 教師と生徒----それ以上でも以下でもない関係だから。そのテリトリーから決して出ることが出来ないから。
 また酸素不足だ。
 一ノ瀬は抱きしめたい衝動を、握り拳の中に閉じこめる。
「ご苦労さん。後は俺がやっておく」
「はい」
 にっこりと微笑んだ崎間雪乃の頭を優しく撫でる。まるで親が子供にするように。
 幼さを残した頬がほんのりと紅くなったことを、一ノ瀬は見逃さなかった。
 崎間雪乃の姿を見送った後、数学準備室の窓際に立ち、煙草に火を点ける。
 目を閉じれば、崎間雪乃の様々な百面相が浮かぶ。
 こうして同じ時間をふたりでシェアを出来るのは、この世界に崎間雪乃が過ごす間だけ。
 教師だからこそ、他の男を出し抜けるのは、今だけ。
 だからこそ。
 また自分だけが持つ特権で、また恋する少女の時間を貰う----




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