数学教師一ノ瀬の手は大きい。 それも雪乃の頭なんて、ひょいと持ち上げてしまうぐらいに。 その手に頭を撫でられると、ヤル気がチャージされると同時に、こころの端っこがシクシク痛む。 練習が上手く出来たら、手伝いをしたら、成績が上がったら…。まるで小さな子供にするように、誰にでも頭を撫でる手。 誰にでも平等な手。 別段、トクベツではないことを思い知らされて、いつも奈落に落とされてしまう。 その手が、頭を撫でる以外に、意味を持って触れてくれれば…。きっとこころのなかにあるもやもやとしたものは、何処かに行ってしまうのだろう。 黒板にチョークで字を書いている指先をぼんやりと見つめながら、雪乃は想像する。 あの指先に、頬や唇をなぞられたら、どんな感じなのだろうか。きっと天国よりも素敵な感覚がこころを支配するに違いない----そんなことばかり、ぼんやりと考える。 あの手で特別な感情を湛えて触れられたら---- ぼんやりと考えていると、リズムを取るように軽く机を叩かれた。 びくりと躰を跳ね上げさせて顔を上げると、一ノ瀬の困りきった瞳と目があった。 「崎間、ちゃんと聞いてるのか?」 「あ、はい、あ、あの、はい。タンジェントが…」 「ったく、授業はちゃんと聞いておけよ。崎間」 「…はい」 呆れたように呟きながらも、素押し色素の薄い瞳は笑みで湛えられている。 以前、祖母がロシア人だと聞いたことがある一ノ瀬は、他の誰よりも端正な顔をしていた。豊かな慎重で、モデル並みに躰のラインも整っている。このまま雑誌に出てもおかしくない容姿をしているただし、本人のファッションセンスは除外してだが。 なのに、素足に健康サンダル履きだし、白衣をだらしなく着ている姿は、その容貌とはまったく結びつかないほどに親父臭いのも事実だ。いつも煙草臭い。 憧れている女生徒もそれなりにいるが、夢見る夢子がまだまだいる女子高生には、「キタナイ」と倦厭されてもいる。 「さてと、問5の演習問題を解いていく」 「キタナイ」なんて言われる割にはさらりとしているブラウンの前髪をかき上げながら、黒板に几帳面な文字を書く。 一ノ瀬が書く文字も艶めかしくて、雪乃はドキドキした。 教室中によく通る声で、一ノ瀬は説明を始める。その声にうっとりとしながら、雪乃はまた綺麗な指先ばかりを見ていた。 陸部を選んだのは、何も中学時代に陸上をしていたじゃらではない。本当は、他の運動部にしようかと密かに思ってもいた。しかし、顧問の一ノ瀬が熱心に誘ってくれたから、しっかりと握手をしてこころから雪乃を求めてくれたから陸上をしようと思ったのだ。 あの時のことを忘れない。 手をしっかりと握って、本当に嬉しそうな瞳できらきらと輝いて行ってくれたのだ。 「これから一緒に頑張ろう」----と。 だから陸上を続けたのだ。 きっと、一ノ瀬自身は忘れてしまっているだろうが。 グランドに出ると、今日はかなり風がきつかった。グランドを見守るようにひっそりと咲く八重桜も、花びらを風に揺らしている。 綺麗だが、何故かこころが切なく締め付けられる風景だ。 「今日は風がきついが、しっかりとウォーミングアップをしろよ! 直ぐに築大会が来るからな!」 何故かトレーニングウェアの洗濯だけは微妙にお洒落な一ノ瀬が、グランドにやってきて生徒に声を掛けてきた。 とにかく、陸上部の顧問でいるときの一ノ瀬だけはとても素敵に思える。これは女子部員は誰もが認めるところだ。 「トラック長!」 雪乃が一ノ瀬に呼ばれて、駈け寄ろうとしたところだった。 「---あっ!」 強風が吹いて、いつもは引っ詰めにしている雪乃の髪が酷く乱れる。 八重桜の花びらが、まるで吹雪のように舞い上がった。 「おい、崎間、ほっぺたに花びらがついてるぜ」 いつも憧れている一ノ瀬の指先が、雪乃の頬をかすめようとした---- その指先に触れられたら、きっと、このこころはとろとろに溶け出してしまうだろう----そしてそれはきっと切ないぐらいに甘いだろう。 うっとりと目を閉じて、その天国のような瞬間を待ちわびた瞬間、指は触れられることはなく、雪乃を置き去りにした。 「----自分で取れ」 低い声に目を見開くと、そこには困ったような顔をしている一ノ瀬がいた。 「…はい…、取ります」 一ノ瀬の切ない瞳を見ていると、こちらまで泣きなってしまい雪乃は目を伏せた。 「----はい、自分で取ります…」 「ああ」 自分の指先が酷く冷たくて、こころまで冷えてくるような気がする。 雪乃は込み上げてくる涙を堪えながら、一ノ瀬を見上げると、もう背中しか見えなかった。 先生に触れて欲しかったよ…。 |